続いて明日香村、岡寺へ。

ここもあじさいで有名な寺、ということになっている。

山門をくぐってすぐの手水舎に、花が浮かべられている。

その向こうの水の無い川に、所狭しと鉢植えのあじさいが置かれている。

 

小さな地蔵も花で飾ってある。

ほんの少しの嫌な予感、居心地の悪さを感じる。

 

長谷寺を少し小さくしたような階段があり、同じように鉢植えのあじさいが置かれている。

参拝客はそれなりに多く、無造作に写真を撮ると必ず人が写り込んでしまうので断念。

本堂の横にはかわいい地蔵が、これまた花に囲まれている。

 

奥に進むと、まだ新しいピカピカの石仏が何体もあり、それぞれを囲むように鉢植えが並べられている。

天邪鬼な私は、どうしても作為的なものを感じてしまう。

「撮れ」と言われているようで。

地植えのあじさいは少なく、あじさいで有名な寺としてはどうなのか、という気持ちもぬぐえない。

 

しかし寺も商売なのだ。

寺が欲しいのは参拝客ではなく、観光客だ。

今や大人のほとんどがスマホという名の高性能カメラを持ち歩く時代。SNSで話題にしてもらい、ここへ訪れてもらうために、あじさいの鉢植えを並べているのだろう。

 

いくつか並べられた地蔵を見ながら、また信仰心について思う。

私は神も仏も信じないが、自然崇拝みたいな気持ちは少し持っている。

少しオカルトの話ではあるが、古代日本人は「龍脈」や「地脈」という土地のエネルギーを観測することができ、龍脈の上に神社や仏閣を建立してきたという説がある。

その境内に生えている木々は、日本人が信仰し、長い年月をかけて大切に守ってきたというのもあるが、その土地のエネルギーが植物に影響を及ぼすことで、巨大に成長したとも考えられると。

本当か嘘かは別にして、私はこういった考え方が好きだ。

カタカムナに代表される古代日本人の叡智が、まだこの国のあちこちに残っていると。

美しいものと信仰心は親和性が高いと思うが、西洋アジサイの鉢植えでは、私の心を動かすことは無い。

ここは古代から日本の歴史の中心であった奈良。

そこにある寺院が、西洋アジサイの鉢植えを並べて、SNSの「映え」だけを狙うのは、ちょっと安易な手法に思う。

まぁ私も、その情報に流されてここまで来たのだけど。

 

私はあじさいが好きだ。

青が似合う花なのがいい。

雨を連想させる花なのもいい。

花のことなど何も知らなかった少し前までの自分でも、間違いようがない存在感があるのもいい。

好きが高じて、私の家の庭はモミジと苔とあじさいをメインに作っている。

その庭づくりのヒントがないかと期待しての寺巡りでもあったが、今日は琴線に触れるまでのものは無かった。

自分ちの庭の方が好みを表現出来るが、逆に言えば、そういう寺院もきっとあるはずで、近江八幡の長命寺や、山県市の三光寺など、私の好みに近い寺もある。

寺巡りはまた続けるが、今日はここまで。

 

まだ記憶に新しい明日香村。

1年半前に訪れた談山神社を通過する。

 

津風呂湖へ。

ここは初めてだが、どうやら釣り師のための湖らしい。釣り船がいくつも浮かんでいる。

道や周囲の建物、看板などが昭和の感じ。古いまま残っているとも言えるが。

トラス橋で1枚。

 

ベンチを見つけて休憩。

昼食はカレーパンと缶コーヒー。一応デイリーヤマザキ名物となっていたが、グルメ信者の人には叱られそうな、逆グルメ信仰心である。