18/01/28 サルナート初転法輪如来像が象徴する「ワンダルマ」

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宗教教団に所属する事は、教団独自の教義を受け入れることであり、その教義は他では通用しない。

教団の中でしか、意味を持たないから。それは最初から、普遍的真理ではないと、宣言してしまっていることになる。現代の人間は、全世界に通用する真理でないかぎり、怪しいと感じてしまう。

 

しかし、教団ごとに違う教義を、バハイの見方をして、

「何かが生まれているプロセスで、お互いを補い合うものだ」とするならばひとつの真理が生まれる。

 

ウ・ジョーティカ長老は、涅槃と観察についてこう語る。

「涅槃の状態に入った時、あなたはそれをもはや観察していない。観察が可能であるためには、

あなたはその外側にいなければなりませんから。だから瞑想者がこの涅槃の状態にある時には、

その人はもう涅槃を観察してはいないのです。それを観察することはできません」

 

良いモノに対しての強い執着。悪いモノに対して怒りが苦しみを生んでいる。

だから、その執着や怒りという反応をしないように修行して、

最後に完全に反応しなくなるところが絶対の平安になる。

苦しみが完全に終わった絶対平安の世界が涅槃=ニッバーナ=ニルバーナである。

 

その状態に入る直前に、この状態に入ったらすべての苦しみから解放されることはわかる。

でも、状態に入ってしまったら、もうそれを「観察」することは出来ない。

眠りに入る前に「ああ、今から眠りに入るな」と分かり、眠りから覚めた後に「今まで眠っていたな」と分かるが、夢を見ないほどぐっすり寝ている時は、「今、自分は寝ているな」とは気づけないのと同じ。

 

これは人間を一重構造と捉えているかぎり、確かに観察することはできない。

人間が一重構造だったら、観察する主体が止まっているのだから、論理的に考えても完璧にそうなる。

 

しかし「涅槃を観察することが出来る!」と、宣言された長老がいらっしゃった。

パオセヤドーである。

それは何を意味するのか?

 

我々が「涅槃の外側にいる」ということ。それは先発ピッチャーではなく、リリーフピッチャーとしての私。

二つの相容れない主張を、バハイ的にひとつのプロセスの展開として捉えていくと、

人間は二重構造になっていると分かる。これは世界の普遍的な真理である。


呼吸も涅槃も、モンキーマインドの先発ピッチャーでは観ることができない。

まず最初に、涅槃が観察できない、ということをはっきり言ってもらうことで、涅槃が観察できる、

ということの意味が、とんでもなく革命的であることがはっきりしたのだ。

 

お互いに違っているものを、聖なるものの展開のプロセスとして観ていたならば、お互いに間違いではなく、

すべて必要なものであることがわかる。

 

(感想)

 

主張が違うからといって、お互いを敵とみなし、自分の教団の教義が一番だと主張したり、

相手を見下したりすることは、大事な本質を見逃してしまうのだと分かります。

違いはプロセスの展開の過程であり、お互いを補い合うものとみたならば、争うことなく、

普遍的な真理に到達することができる。

 

涅槃を外側から観察していところに、本当の私が存在する。これは想像でも、概念でもなく端的な事実であり、

実践のなかで、体験的に知ることができる。あらゆるものがスッキリとシンプルに整理されていきます。