追悼、山本美香さん:インタビュー記事全文掲載します。 | 白河桃子オフィシャルブログPowered by Ameba

追悼、山本美香さん:インタビュー記事全文掲載します。

山本さんに初めてお会いしたのは、バグダッド陥落の後、日経ウーマンのインタビューでした。
その後「戦場にいった女たち」というシリーズ連載を雑誌「清流」でやらせていただき、
その時に念願の二回目の取材が叶いました。

働く女性を取材していて出会う、尊敬すべき女性の1人。
凛とした美しい人でした。そして優しく強い人でした。

いつもニュースではなく「人」を見ていました。

身を呈して、安易なナショナリズムに流されて憎み合う前に
やることがあると私たちに教えてくださったと思います。

以下は2010年の「清流」の記事です。
編集部のご厚意により、全文を転載させていただきます。

心より山本さんのご冥福をお祈りさせていただきます。



山本美香さん(2010年当時 42才)ジャパンプレス ビデオジャーナリスト

無関心は大きな罪。私たちは戦争を防ぐことができるのに、自分には関係ないと目をそらし、戦争を防ぐことを怠っているのです。

プロフィール
1967年生まれ、大学卒業後、1990年CS放送朝日ニュースター入社。報道局記者として雲仙普賢岳などを取材。ハンディカメラを使うビデオジャーナリストの先駆者。95年フリーに。ジャパンプレスに所属。アフガニスタン、イラク、コソボ、チェチェン、アフリカなど戦場取材のエキスパート。戦地に生きる女性と子供をテーマに活動。2003年イラク戦争取材でボーン・上田記念国際記者賞特別賞受賞。著書「中継されなかったバグダッド」(小学館)「ぼくの村は戦場だった。」(マガジンハウス)
 
2003年イラク戦争の中、バグダッド市内のホテルへの米軍の砲撃で、ロイター通信の記者が死亡するという衝撃的な事件があった。その時に、手を血だらけにしながら、倒れた記者を助け起こそうとした日本女性を覚えているだろうか? それが、空爆の第一波をバグダッドからレポートしたビデオジャーナリスト山本美香さん(当時35歳)だ。
2003年バグダッド陥落の後、日本に帰国した彼女にインタビューをした。
「戦場取材はしていても、進行形で人が死んでいくのは初めての経験でした。血だらけで泣いている私に、後から来た人が『防弾チョッキを着なさい』と言ってくれて、初めて『そんなに危険だったんだ』と思いました」
ホテルの建物がグラグラと揺れるほどの衝撃があった瞬間、カメラを持って飛び出したのはプロとしての習性だ。しかし部屋に飛び込んだ瞬間、カメラは投げ捨てていた。カメラを回すという取材者としての自分と、倒れている人を助ける自分。二つの自分が心の中で激しく葛藤したという。
「ふと、あ、カメラ回さなきゃって思った瞬間もあるんですよ。片手で助けながら、片手で撮りたいという、二つの心があった。そしてめちゃくちゃに怒っていました。『どういうことなの、この事態は』。それはぶつけどころのない被害者の人たちと同じ怒りです」
そして今回、7年ぶりに会った山本さんはちょうど、そのイラクの統一選挙の取材から戻ったばかり。あれから7年、山本さんが見たイラクはどうなっているのか?
選挙の朝は、7時からドカーン、ドカーンと爆破の音が響き、救急車のサイレンが鳴り響いた。自爆テロや車爆弾の音だ。現在のバグダッドは、米軍が都市部から撤退し、米軍との抗争ではなく、無差別テロが起きている状態だ。つまり一般市民や外国人の自分も、いつどこで巻き込まれるかわからない怖さがある。しかしこれでも「以前に比べれば治安はよくなっている」と山本さんはいう。
独裁政権だったフセイン政権は崩壊したが、その後のイラクの治安悪化は同じイスラム教徒のシーア派とスンニ派が対立する宗派抗争が原因だ。2006年から2008年にかけて宗派抗争の嵐が吹き荒れ、今まで隣同士だった住民たちが対立する。時間をかけて宗派ごとの住み分けが進み、分離壁もでき、その分治安が少しは改善したのだ。
しかし人々の心の傷は消えない。
「兄弟をシーア派の民兵に殺されている。シーア派の友達はいるが心の底から信用できない」
あるスンニ派の男性は山本さんに語った。宗派抗争は、昔は一緒に暮らしていた住民たちに、拭い去りがたい不信感を植え付けた。しかし危険があっても、人々には日々の生活がある。毎日買い物に行かなければいけないし、郵便局にも学校にも行きたい。フセインは去ったのに7年たっても治安はよくならない。
「宗派を超えた政権をつくらないと、自分たちの未来はない」
 ついに人々は立ち上がった。山本さんは今回の選挙で「目覚めた市民」を見た。
 投票日は黒い全身を覆うアバヤ姿の女性たちもやってきた。キリスト教徒の女性はジーンズをはいている。「投票してきた」と胸を張る人々の顔は明るかった。テロに合うかもしれない危険を冒してまで、自分たちの貴重な一票を行使する為に、自ら生活を変えるために投票所に足を運んだのだ。
 フセイン政権時代は秘密警察の目が至るところにあった。ボロボロのホテルに盗聴器があるとは思えないのに、山本さんが「フセインなんて・・・」と言ったとたん、「しっ」と山本さんを制する人たちの目には、根深い恐怖があった。その人たちがおそるおそる一歩を踏み出し始めている。2005年の米軍主導の選挙から数えて二回目の、自分たちの手で行う総選挙だ。
「もう自分の意志を表していいんだ。自分の意志で投票をしてもいいんだ」
投票に来た、喜びにあふれる人々の顔を、取材カメラはしっかりと記録している。宗派間の争いをやめ、政治的、経済的に安定することが、武装勢力の力を削ぐ。「もう戦争はこりごりだ」」という人々の気持ちが、宗派の対立を超えた政権を望むのだ。
「長い眠りについていた人たちが目覚めたんです。それを伝えていきたい。戦争のときは世界中のメディアの注目が集まるけれど、終わるとパタッとなくなる。それが恐ろしいんです。戦争は終わったけれど、人々の生活はむしろ厳しい状況になっている。それを関わった者の義務として、きちんと報道し続けていきたい」
 いつも山本さんの取材の対象となるのは、普通の人々の生活だ。今のイラクで5人が自爆テロで亡くなってもニュースにはならない。100人ならニュースになる。
 しかしその5人の周りに、その死を悲しむ人が何人いるのだろうか? 一人の死の周りに、その家族がいる。親戚がいる。友達がいる。100人の死者の一人一人の名前があるのだ。その人たちはどんな人だったのか? どんな人生を生き、誰を愛し、誰に愛されたのか? 
「数字で見てはいけない。一人、一人、しっかりと人を見なくては」
これは多くの死に鈍感になりがちなことへの自戒だ。一人の死に泣いていたら仕事にはならないほど、死は身近にある国だ。しかしテロのニュースを聞いた時、遺族に話を聞いた時、ゾクッとしたこと、息苦しくなったこと・・・その皮膚感覚を大事にしていきたい。そして「普通の家族のお父さんが、なぜ死ななくてはいけなかったのか? なんとかならないのか?」という怒りを持ち続けたいと山本さんは言う。
 私はずっと山本さんに聞きたいことがあった。いったいどんな人が自爆テロをするのか? 私の知り合いの日本人男性はバリ島のテロで重傷を負い、インドネシア人の奥さんを亡くしている。山本さんはその疑問に答えてくれた。
「直接自爆テロの関係者に取材したことはありません・・・でも、ある一般市民の人が、テロに行きたくなる気持ちもわかると言っていました。自爆テロ犯には狂信的な若い男性だけではなく、若い未亡人もいます。夫を殺され、絶望し、精神的にも、生活にも追い詰められている。そういう人をモスクなどで見つけて、勧誘するのだそうです」
 他にも親をなくした子供、老人や知的障害者もいるという。マインドコントロールと多額の報酬が人々をテロに向かわせる。操作するのは政情不安を望む人たちだ。宗教対立もそういった勢力に利用されている。
 取材で得たことは多くの人に知ってほしい。たまたま平和な日本に生まれた人にも無関係ではないことを感じてほしいと山本さんは強く願う。
「世界の安定はつながっている。日本にいる人にとっても、遠い国の人ごとではないのです。生まれた場所、時代が違うだけで、同じ人間がひどい目にあっていることを、ちゃんと見てほしい。想像してほしい」
 山本さんの報道の姿勢は、最初の戦場取材の現場、アフガニスタンでの出会いをきっかけに培われたものだ。普通の大学生だったという山本さんは卒業後、報道の仕事がしたいとCS朝日ニュースターに入社。マスコミ志望は新聞記者だった父親の影響もある。そこで自分でビデオカメラを持って取材する、ビデオジャーナリストという仕事と出会う。
その後ジャパンプレスに所属し、戦場取材のベテランと一緒に96年、初の紛争地取材としてアフガニスタンへ。タリバン勢力が首都カブールを制圧した直後の現地取材だった。タリバン政権下では、女性はブルカというすっぽり頭から全身を覆う布をつけている。学校も仕事も禁止。その中で、ひそかに勉強を続けているカブール大学の女子大生グループを取材するチャンスを得た。
 もちろん、一般市民への取材は禁止されている。取材を受ける女子大生たちも当局にバレたら処罰されるだろう。現地の人と同じ格好をし、尾行を警戒しながら、たどり着いたのは一般の民家。そこには閉鎖された大学の勉強をひそかに続けようとする秘密の教室があった。
「なぜ、こんな状況下で勉強を続けるのですか?」
山本さんの問いに彼女たちは凛とした瞳をあげてこう答えた。
「こんな状況がずっと続くわけじゃない。平和になってから国造りをするのは私たちだから、今勉強しなくてはいけないんです」
 まだ20歳の女性たちの言葉に山本さんは心をうたれた。日本とはいえ、テレビに顔をだすことは、彼女たちにとって大きな危険をはらんでいる。しかし3人全員が顔を出すことを了承してくれた。
「出してください。世界に伝えてください。逮捕される危険よりも、私たちのしていることが誰にも知られず終わることのほうが怖いんです」
 彼女たちの気概は山本さんを圧倒した。
「戦争の中、おびえ、泣き暮らし、救いを求めるかわいそうな人たちというイメージを持っていた自分が恥ずかしかった」
戦争をとらえるとき、ひとつの側面からとらえてはいけない・・・ アフガンの20歳の女子大生が教えてくれたことだ。彼女たちと最初の戦場(紛争地)取材で出会えたことはまさに僥倖と言える。
「紛争の中、絶望的な状況の中、それでもこの地で、希望を持ち、『生きているんだ』という人々の叫びは、20代の私には大きな衝撃でした」
 その後の山本さんの取材の立ち位置を決定づけた出会いである。特筆すべきは、その取材は女性である山本さんにしかできない取材であったということだ。イスラムの世界では、女性たちの世界には男性は入れない。女性だからこそ、見ることができたのだ。
 しかし女性が紛争地に行くことにはデメリットも多い。特にイスラムの世界に行くと女性であることを否でも意識させられる。異邦人の女性を見る目線が強い。人混みで体を触られることもある。イスラムのタブーに抵触しない異教徒の女性は好奇の的となる。紛争地では、怪我をする危険、誘拐やレイプされる危険もある。
「いつもリスクは頭の片隅にあります。取材のチャンスは一期一会。取材はできても帰り道が一番危険と先輩たちに教わりました」
 いくか、どうするか? 取材が終わったら夜になる。夜道はリスクが高い。またとないチャンスを生かすか、それとも敢えて戻るか・・・戻ることも勇気だ。
 「きちんと取材して、戻る・・・それが最重要課題です。蛮勇は必要ない。できるだけ安全のパーセンテージを上げていくしかないんです」
危険度の高い場所では必ずガードを雇い、4人ぐらいで行動する。現地のスタッフはすでに信頼関係ができている人を雇う。イラクならシーア派とスンニ派を両方スタッフに入れ、前回も雇った人を必ずメインにする。情報漏洩が怖いので、行き先は最小限の人にしか言わない。
「信頼できるかどうかの分かれ目は、小銭をごまかさないこと。小さな裏切りは大きな裏切りにつながります」
なるほど・・・と思う。卑近な例で恐縮だが、私もイスラム教徒の多いインドネシアで4年暮らした。信頼できるメイドを雇うコツは小銭を盗まない人を選ぶことだった。野菜や砂糖、米などの日用品が減ることはあっても、それは彼女たちにとって「貸し借り」の範疇。逆に私が「ニンニク貸して」というと、貧しくても気軽に貸してくれるし、返さなくても気にしない。もちつもたれつだ。しかし「お金」を盗むことは、イスラムの人たちにとってイスラムの教えに背く大罪・・・それを平気でする人は信用できないと教わった。
山本さんの場合、誘拐などされたら真っ先に殺されるのは現地のスタッフだ。自分だけの安全ではないので、余計に気をつける。安全のコストは高く、例えばバグダッド空港からホテルまで二台の車で移動して約25万円。時期によっては40万円もかかった。
残念なことに今のアフガニスタンは再び治安が悪化している。2009年夏に訪れたとき、日本のNGOは現地での日本人スタッフの活動を縮小し、国連スタッフも外出制限がある状態だ。イラクからは撤退した米軍がこの国では増強されている。若い米軍兵士は「治安維持なのに、市民に銃を向けなきゃいけない」と嘆いた。待ち伏せ攻撃、路肩爆弾・・・高まる緊張・・・
「これっていつか来た道じゃない?」
アメリカはイラクで起こったことをアフガニスタンで繰り返そうとしている。なぜイラクで学んだことを生かせないのか・・・山本さんは歯がゆい思いをする。
しかし感動的な光景もあった。貧困エリアに日本のNGOの手による識字教育の寺子屋がたっていた。教室にいるのは子連れの女性たちだ。
「私、名前が書けるようになりました」
子供の鉛筆を借りて、誇らしげに自分の名前を書いて見せる母親たち。目がキラキラと輝いている。字が読めるようになれば市場に行くときに「卵10個」と買い物をメモできる。隣の人の新聞を覗き込むことができる。
「昔なら考えられないことです。母親の教育をすることで、母親たちが子供を学校に行かせるようになった。貧困からの脱出には教育しかないと彼女たちはよくわかっている。そして子供の貧困からの脱出は、自分たちの脱出でもあるんです」
貧しい母親たちのたくましさに頭が下がる思いだ。同時に思う。日本に生まれたことはなんてラッキーなことだったのかと。
「なぜ戦争の悲劇は繰り返されるのでしょう?」
最後の質問に彼女は答えてくれた。
「無関心というのが大きな罪のひとつではないでしょうか?根っからの悪人はそれほどいないのに、戦争は起きてしまう。原因はいろいろありますが、戦争が起きる兆候は必ずあって未然に防ぐ手立てもあるはずです。でもそれを自分には関係ないと目をそらしてしまう。一度始まった戦争を辞めることは難しいと知っているのに、私たちは未然に戦争を防ぐことを怠っているのです」
山本さんの言葉は厳しい。バグダッド陥落の直後、初めて彼女にインタビューをしたとき、関係者は誰もが「これでイラクは平和になる」と高揚した気分だった。山本さんもそう望んだ一人だった。しかし、あれから7年・・・人々は安心した暮らしへの、じれったいような歩みを一歩ずつ、忍耐強く続けている。
「取材には終わりがないんです。そのとき、その時代、その光景を見た者の責任として、定点観測をして、伝え続けていかなくてはいけない」
山本さんはアフガンやイラクに定期的に入って取材を続ける。そして取材したものが多くの人の目に触れてもらえるように力を尽くす。それが「危険を冒してまで、話を聞かせてくれた人への最大の義務」だから。
人がどんなに望まなくても戦いは起こる。しかし戦いの中にも希望はあるのだと紛争下の普通の人々が教えてくれる。かき消されてしまいそうなその声を、休みなく伝えていくことが、戦争を抑止する手段なのだ・・・山本さんのインタビューを終えて、そう強く思った。