子ども達の未来を守りたいときは。遠い点ですが、まずは、「私」を。そして、パートナーに贈り物を。
「なかだ」の場では少しでも志を同じくしているメンバーが集まっていると思っています。
ご質問を頂いたので回答していきます(^^)
と、その前に20歳の頃から「なかだ」「世界の戦争と差別を無くしたい」という思いを心の片隅に持って生きてきました。
先生のゴールは何ですか?と言われたときは「子ども達をドリームキラーから守ることだよ」と今も確信していますが、多分一生かかって成し遂げるような問いで6年かけて膨大に学んできても方法論はなかなか観えてきません。
書籍ショック・ドクトリンを読み、映画ショック・ドクトリンを観るまでもなく、世界を、宇宙を知れば知る程何かしたい、できることはないのか?という震災ボランティアのような気持ちが湧いてきたことも覚えています。
しかし、震災ボランティアのように無闇に突っ込んだり、思考停止のようにお金を寄付すれば解決するのか?と言われれば、書籍繁栄下巻で言われているように、本質的な解決には全くならないことが想定されますし、むしろ、問題を大きくするように働いてしまったこともニュースを読んでいてもありました。
もう終わった事なので話を蒸し返しても仕方がありませんが、善意でおこなってその行為が裏目に出て足を引っ張ってしまったのではお互い何とも言えない苦しさがありますから、我々はそこから何かを学ぶことが必要なのではないか?とも思いました。
もちろん、傍観して手を拱いていればいいのか?と言われれば、それでは現実は何も変らないでしょう。
ですから、偽善者と言われないように、今できる範囲でコッソリ募金をしたり、同じような考えを持った先生のところで学んできました。
長くなりそうなので結論から言えば、少し遠い点と点なのですが、同じ志を持っている人が今なすべきことは我々大人がもっと大人になるということに尽きるのでは?と考えています。
ここでの大人とは、一言でいえば、波動方程式が読めるレベルであり、原理主義を超越することであり、他人の機能という縁起を観て、他者を尊重できるようになるということに思っています。
話が大きくなりますが、抽象思考ができ、私の世界が絶対という原理主義による差別を越えていくということです。もちろん、縁起書き換えでいえば、縁起です。
素晴らしいことなのですが、心優しい我々の仲間は自分の身を犠牲にしてでも子ども達に身を削ってボランティア活動や奉仕をしています。
でも、我々大人がボロボロでは子ども達もその姿を観てどこか不安に思ってしまいます。
お兄ちゃんボロボロだからそれ要らないと実際に言われた時に「なかだ」は目が覚めたんですよね。これ、昔、妹に言われました。
気づかないうちに「私」がボロボロになっていたんですよね。
ですから、まずは自分自身が自分の足で立ってボロボロな状態から脱出することからはじめると良いのではないか?と思っています。
どうしても自己犠牲の香りが子ども達を不安にすると思うんですよね。伝わってしまいますから。
そして、自分の家族は自我に近いのでスコトーマになりがちですから、まずは「私」と私に1番近い家族を幸せにできれば、その輪が広がっていきます。
半径1mくらいの自分の周囲に関わっている人を幸せに、笑顔にするということです(^^)そしたらそれを徐々に大きくしていけばいい。
別に大きな話ではなくて、例えば、ビジネスや仕事でいえばキッチリ値段以上の価値を提供すること。
家族でいえば、パートナーに贈り物をしていますか?ということに繋がるような気がしています。
今の「なかだ」の思考過程ですが、参考になれば幸いです。
【参考書籍】
ショック・ドクトリン〈上〉――惨事便乗型資本主義の正体を暴く/岩波書店
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DVD BOOK 「ショック・ドクトリン」 (旬報社DVD BOOK)/旬報社
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繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)/早川書房
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