同じ主張を言っているように観える〜目があるのに見えない〜 | 最新の認知科学に基づいたコーチング&ヒーリングを同時にマスターできる世界に1つだけの習得レッスンとは?

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同じ主張を言っているように観える~目があるのに見えない~

同じ主張を本当に言っているのかもしれませんし、あなたの目が曇っているだけかもしれません。

遠隔Delightのフィードバックを10通以上頂いています!

今回は掲載許可おkのものはすべて掲載したいな(僕の体力が持てば)と思っています。

今回の記事のフィードバックの掲載はNGとのことなので、「なかだ」の返信にさらにソースの追記をしてシェアさせて頂きますね。

パラダイムシフトの瞬間をシェアすることで、これを読んでいるあなたもパラダイムをシフトすることができます。それが大乗であり、フィードバックを読むことの強みであり、お互いが素早く豊かになるコツです。

文句無しですね!
もうすでにやられているのかもしれませんが、
次のステージとして抽象度が上がった後に、降りること(抽象度の行き来)を覚えると良いのかもしれません。(大乗のステージです。)

「なかだ」のようにありとあらゆる角度から、数学者クリプキについて語ったり、釈迦について語ったり、教えを広めていくステージです。多くの人は目をもっているけれど観ずに、耳を持っているけれど聞きません。

期待しております!


この返信を読んで大きな変化があったようですね。
良かったですね^^

目を持っているけれど見ずに、耳を持っているけれど聞かない、というのは、新約聖書 マルコによる福音書4章の一文です。

日本人は無宗教と言われますが実際問題宗教(儒教や国家神道)の影響を受けています。無宗教と賞する人ほど気付かずに洗脳されているイメージです。逆説的ですが、それに気付いていたら洗脳は解けています。

「なかだ」は宗教やスピリチュアルについて仕事上多く語りますし脱洗脳の依頼も頂きますが無宗教です。あ、国際事情でいえば、外国に旅行に行ったら必ず仏教徒と応えます。笑

聖書は宗教として読まずに、アメリカや世界は聖書の世界感で生きている人もいるということを知ると同時に、2000年以上生き残ってきたもので自己啓発の原典ですから、教養としても是非目を通しておいて欲しいと思います。

種まきの喩えから引用をしましたが、種まきの喩えとは、一言で言えば、セミナー難民やヒーラーショッピングをしている人に大きな気づきを与えてくれるのではないでしょうか。

イエスの言葉がフルっていて楽しい一文です。

あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。種まきは御言をまくのである。

道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。

同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。

そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、

世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。

また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである


聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。

これは先日書いた、恋愛や結婚をパラメータ(地位、お金、学歴、身長・・・)などで量るとあなたも同じように相手に量られますよ、という喩えの原型ですね。

気をつけたいところですね^^
この喩えの意味が分かりますか?

(引用開始)新約聖書 マルコによる福音書wikisorce 4章全文
イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。

イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、
「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。

まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、

日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。

ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。

そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。
イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。

そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。

それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。

また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。

種まきは御言をまくのである。

道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。

同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。

そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、

世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。

また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。

また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。

なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞くがよい」。

また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。

だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。

夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。

地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。

実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。

また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。

それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、

まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。
譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。

そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。

すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。

ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。

イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。

イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。

彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。
(引用終了)

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