新約聖書や大乗仏典素晴らしいですね。
ご存知かもしれませんが、新約聖書はまずはマタイ、ルカ、マルコの3つを読むことがオススメです。面白いところや有名なところをゴリゴリ読むと良いと思います。
ルカによる福音書の6章36節~6章49節は僕の辞世の句(長いけれど)のようなものです。wikisorce ルカによる福音書 新約聖書
(引用開始)
あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。
弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。
しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
(引用終了)
イエスは答えをすべて喩えで回答します。質問に質問で応えます。まさに、煙に巻かれるように。僕の中では、おそらくイエスは思考して欲しいと思って喩えを使ったのではないでしょうか。答えを渡さなかったのではないでしょうか。
人は自分で得たものしか大切にしません。
「なかだ」自身すべてを知っているわけではありませんし、
出来る限り、自分で立つ力を付けて欲しいと願って良い問いをプレゼントしているつもりです。
洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。
僕自身もメンターに「そんな質問をするな、そんなレベルでは弟子失格だ。出直してきなさい」に近いことは何度もありました。というか、今もそうです。
僕自身は日々メンター達のように、真摯に抽象度上げていきたいです。
一瞬一瞬を燃えるように全力で生き、本気で学び、本気で仕事をし、本気で遊びながら。
なかだ
(引用開始)
特定の宗教の教義など学校で教えるのは問題外だが、少なくとも、キリスト教や仏教の歴史や時代の思想を代表する優れた宗教家の言葉や思想は、子供達の「心の形成」に極めて重要であり、効果的でもあろう。
宗教にこだわれなどといっているのではない。私の信条は、「宗教は凝るな。しかし、忘れるな」である。
自分の教養や愛情で、子育ては十分と思っている人は多い。しかし、それくらいのことはサルでもやっている。機会を見つけて1度でも、仏典でもバイブルでも手に取ってみるがよい。二千年も三千年も民族が受け継いできた宗教には、どんな苦しみにも悲しみにも応えてくれる愛と叡智が秘められている。人間として何が正しくて何が間違っているかも教えてくれる。
宗教を信じている人も信じていない人も、この機会に宗教へのかかわり方をしっかりと掴んでもらいたいものである。
それが、オウム真理教のような宗教から家族を守り、あるいは己れ自身をも救う最良の方法である。
(引用終了)p231娑婆を読む 荒了寛
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