【長州偉人伝】児玉源太郎を顕彰しよう! | 周南市 東郭の世界

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周南市の徳山小学校と市役所の間の区画に児玉神社と児玉公園がある。

桜馬場1丁目と児玉町が地名であるが、此処は児玉源太郎を顕彰する場所である。

因みに児玉神社は、神奈川県藤沢市江ノ島にもある。

また、児玉源太郎の墓所は、東京都府中市の多磨霊園にあります。

吉田松陰先生のように、東京と故郷にそれぞれ神社や墓所があります。

徳山の児玉神社は、大正11年発起し、大正12年に江の島児玉神社の神殿を移築したそうです。

 

児玉 源太郎 嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日) - 明治39年(1906年7月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献したとWikiに紹介されていますが、彼の功績は、台湾総督時代と、満州軍

総参謀長時の日露戦争を勝利に導いた二つがあります。

 

                                               《2020.6.9 周南市 東郭》

 

 

 

児玉源太郎大将

 

【台湾でのの業績】

児玉は台湾総督に就任すると、弱冠42歳の後藤新平(後の東京市長)を台湾総督府の民政長官に抜擢した。そして児玉はまず台湾の行政機構の大改革を実施した。6県、65署の役所を台北、台中、台南の3県、44署に統合簡素化した。同時に県知事、署長以下の人員整理を断行し、勅任官以下、1,080人の官吏を罷免した。

 

 約17万人いたといわれるアヘン中毒患者の撲滅にも積極的に取り組んだ。経済政策では、

殖産局長に農業経済学および植民地経済学者の新渡戸稲造を迎え、さとうきび栽培などの生産を飛躍的に増大させた。児玉は台湾総督としての8年間(明治39年4月まで)の間に西部縦貫鉄道、基隆港築港、通貨・度量衡整備、統計制度確立、台北医学校設立、予防注射強制、下水道整備、衛生状態改善、土地所有の権利確定などの諸政策を断行した。

これらの事業経費は約6,000万円に上った。明治31(1898)年当時の日本の国家予算が約2億2,000万円だったことを考えれば、いかに膨大な資金を台湾統治のために投入したかがわかる。《殖大学客員教授 濱口 和久》

 

 

 

 

 

明治ガイドというサイトに「最終階級は陸軍大将。「明治陸軍の三羽烏」のひとり(ほか、川上操六、桂太郎)。日露戦争では、戦略立案や戦闘指揮、ロシアへの政治工作など八面六臂の活躍をみせ、「100年にひとりの知将」「天才」とよばれる。特に有名な功績は、迅速かつ秘匿性の高い情報収集を目的とした日本独自の海底ケーブルの敷設や、乃木希典が攻めあぐねていた203高地・旅順要塞の攻略。」と書いてありますが、性格はというと情に脆く友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われたそうであります。

 

日本軍の参謀育成のため、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたということですが、100年にひとりの智将「天才」と呼ばれていたそうです。

 

しかし、現代人の私達が一番感心するのは、日露戦争で彼が、日本独自の海底ケーブル敷設船で九州 - 台湾間を海底ケーブルで繋ぎ、さらにイギリスのインド・アフリカ回線と結んだことです。バルチック艦隊が喜望峰やインド洋を周回している情報は、イギリスのインド・アフリカ回線を通じてロシアには秘密で、次々に日本に送られた。さらに、この児玉ケーブルといわれる海底ケーブルは朝鮮半島と日本間など、日本周辺に張り巡らされ、朝鮮半島に停泊していた連合艦隊旗艦「三笠」と東京の大本営とで電信による通信が可能であった。1分間で20数文字と限られた情報量であったが、最前線と大本営の間で、情報や命令のやりとりを短時間で行うことが可能であった。このため、大本営はいつでも、連合艦隊に移動命令を出せるようになったため、持てる戦闘力の全てを日本海海戦だけに集合させることが出来たという

先進的な情報網を確立したことです。

ロシアバルチック艦隊を前にして、連合艦隊旗艦「三笠」から本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ擊滅セントス。本日天氣晴朗ナレドモ浪髙シ」と打電されたのも、児玉ケーブルのお蔭なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

児玉神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【忘れてはならない児玉文庫の精神】

 

児玉文庫は明治36年(1903)1月に、児玉源太郎が後進の育成を願って郷里徳山に開設した私立図書館です。同34年1月に県内初の図書館として開館した阿武郡立萩図書館に続き、近代的な機能を備えた図書館としては県内2番目の開館でした。

 

児玉文庫(大正末):周南市立図書館蔵

 

 

 明治35年(1902)12月、源太郎は当時の本丁にあった旧宅「藤の園」を記念するために、

私立児玉文庫の設立を文部大臣に申請した。
 

設立資金は、同30年、英照皇太后(孝明天皇の皇后)崩御の折、陸軍次官であった源太郎が、葬儀の重任を果たしたかどで皇室より賜った金一封に、若干の金子を加えたものである。建築費は総額1,200余円、文庫の建坪は、総坪数30坪であった。
 

 同36年(1903)1月23日、開庫式が行われた。設立者児玉源太郎が臨席し文庫設立の趣旨と由来について演説している。同年1月25日の防長新聞にその模様が掲載されている。
 

この文庫の開設は、イギリスの日英新聞「ゼ・アングロ・ジャパニーズ・ガゼット」でも紹介された。文庫の開設から間のない同年3月に「日本の公共図書館 児玉文庫」という見出しであった。
 

その内容は、源太郎の生誕地徳山が詳細に記述され、文庫が建設された場所はかつての屋敷を買い戻したものであること、資金は皇室から授かったものに自分のお金を加えたこと、また本の取り合わせがうまく選択されていることなどが、源太郎夫妻の肖像写真入りで紹介されている。

 

開設当初の蔵書は、有志の寄贈によるものと、旧徳山藩校興譲館の蔵書で、当時岐陽小学校(現徳山小学校)に伝わっていたものとで構成されていた。
 寄贈者には、新渡戸稲造(1862~1933)や徳富猪一郎(蘇峰1863~1957)、また、山口県出身で総理大臣をも務めた桂太郎(1847~1913)や寺内正毅(1852~1919)らがいた。
 

なお、明治38年3月末の蔵書は7,915冊で、最も多いのは歴史・地理の書籍であった。

その他雑誌、講義録は925冊所蔵、新聞は10種であった。

明治40年(1907)9月、都濃郡の寄付による閲覧室及び書庫が竣工し、総坪数45坪に拡張された。その予算は1,800円であった。
 

 昭和元年(大正15年)には、文庫建物の大修理及び設備の改善、併せて構内の整理及び庭園を築造し、史跡として保存することになった。この工費は3000円である。
 昭和10年(1935)、文庫が手狭になったなどの理由で、本館41坪の増築及び別館物置等を新築することに決定し、同年7月着工、12月に竣工した。
 同時に正門並びに庭園等を改造し、ベンチ等を置き洋式小公園とした。延べ坪約164坪となり、本館は平屋建ての75坪(1部2階のため延べ坪82坪)となった。

明治36年の開設以来、文庫は整備され拡張されていった。
 

 蔵書については、明治38年、7,915冊(雑誌は除く)であったが、その後年々充実し、明治末年は18,726冊に達し、さらに大正末年には28,005冊、昭和17年3月末には43,088冊に達した。
 

 またこの間、巡回書庫(文庫)、館外貸出、児童へのサービス、展覧会、年次報告書の発行など、様々な図書館活動を展開し、社会教育施設として、郷土の文化の発展に大いに貢献した。
 しかし児玉文庫は、昭和20年(1945)7月26日の空襲によりすっかり焼失してしまった。

《出典:周南市立図書館郷土資料ギャラリー》

 

 

※郷土の英雄であった児玉源太郎子爵が、皇室から賜った金一封に自金を加え、郷土徳山に私立図書館「児玉文庫」を開設したのは、後進の育成の為でした。児玉源太郎顕彰会では、「ふるさとの教育文化の向上に役立てばと人々にも開放、全国でも先駆けた取り組みはイギリスの新聞にも紹介されました。独自色のある運営も画期的で、「児玉文庫」は明治、大正、昭和と多くの人に親しまれ、郷土の教育文化に大きな役割を果たしました。」と紹介しています。蔵書は、明治末で18,726冊に達し、さらに大正末年には28,005冊、昭和17年3月末には43,088冊に達したという膨大なものでした。

徳山の読書好き・勉強好きの気風は、徳山藩校興譲館の時代から児玉文庫を通じて醸成されて来たものと思います。焼失した約4万冊もの蔵書の中には、貴重なものもあった筈ですが、今は、周南市立図書館郷土資料ギャラリーとしてひっそり眠っています。周南市(旧徳山市)も児玉源太郎顕彰と児玉文庫再建には、ずっと及び腰ですが、もう、時代は令和の時代です。この児玉文庫という筋の通った精神を

生かして、町づくりに取り組んで戴きたいと願っています。

 

 

 

 

 

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