児玉源太郎先生は、長州毛利藩徳山支藩の藩士児玉半九郎(家禄100石 )の長男として生まれ
る。嘉永5年(1852年4月14日)の誕生であるが、ペリー来航が翌1853年7月8日であるから、
日本の明治維新の歴史の中に生まれた時から晒されたと言っていい。
晒されたのいうのは、本来 "身を置いた” とすべきであろうが、幼き、源太郎の身の上は、
悲惨なことになった。萩藩毛利宗家と同じく徳山藩も政論が尊王攘夷と開国の二派に別れて
抗争し尊王攘夷派の父半九郎は、閉門蟄居を命ぜられ憂悶のうちに死去、家督を継いだ義兄
次郎彦も対幕恭順派に暗殺されたのである。この時、源太郎は13歳であり家禄は一人半扶持
に格下げ、邸宅没収、家名断絶の憂き目にあったからである。長州藩萩本家が禁門の変で敗れ
幕府恭順派が台頭し、政務座役の椋梨藤汰淘汰らが実権を握って、尊王攘夷派を粛清している
と同じく徳山支藩も俗論党が次郎彦を暗殺した。このとき、俗論党は正義派の江村彦之進、
河田佳蔵、井上唯一、本城清、浅見安之丞、信田作太夫を捕縛処刑した。現在、児玉神社
横に徳山七烈士殉難の碑が祀られている。禁門の変の責任で三家老が徳山藩に預けられ
切腹を命ぜられたのは、元治元年11月(益田親施・国司親相・福原越後)であり、児玉次郎
彦の暗殺は元治元年8月、徳山藩七烈士の処刑は同年10月~翌年1月なので、この時期は
萩藩・徳山藩も最も不幸な時期であったと言えます。
《2019.7.5 周南市 東郭》
児玉源太郎像(児玉公園)
児玉源太郎先生の幼年期は、”万延元年(1860年)に藩校の興譲館に入学し、文学を桜井魁園
と本城清に、撃剣を無念流の小田劫右衛門と一刀流の浅見栄三郎に、槍術を大島流の浅見安
之丞に学んだ。その他に父の友人の漢学者で教学院主を務めた島田蕃根にも師事している。”
とWikiに出ていますが、家名断絶となって困窮しても母の元子は、家名を辱めないように
家族を守り、源太郎らの教育に努めたのである。源太郎も悪童どもから恥辱を受けたようで
あるが、彼を支えたのが母元子であったことは言うまでもない。次郎彦を暗殺した犯人たち
を制止し、叱咤して ”御上意によるものか?” と問い詰め ”上意でない成敗ならば元に戻せ”
と迫った。武士の妻としての正論とその気迫に押されて犯人たちは散り散りに逃げ去った。
この母元子の女丈夫が、源太郎の何事にも負けない精神力と人の愛を育てたのである。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191207/12/toukaku2019/c5/ad/j/o0448029914663548467.jpg?caw=800)
ジャカランダの花(児玉公園)
長州藩は、高杉晋作の奇兵隊・諸隊によって藩論が倒幕に統一されたことにより、慶応元年
(1865年)児玉家の家名再興を許され、源太郎は元の馬廻り役(100石)に戻った。
児玉源太郎先生は、明治元年徳山藩献功隊に入隊、函館戦争で初陣を飾ります。兵部省仕官し
以後、陸軍軍人として活躍するのである。明治7年の佐賀の乱(大尉)、明治9年神風連の乱
(准参謀)、明治10年西南戦争熊本城籠城戦(鎮台参謀副長-少佐)を鎮圧し、この軍歴が
後の日露戦争のとき”百年に一度の戦略家”とかドイツ陸軍参謀将校のメッケルから才覚を高く
評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは”日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。
児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう” 述べたという逸話がある。
児玉源太郎先生の性格は、”情に脆く友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でも
あり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られ
るような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の
精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。” という非常
に人間的な面を持った軍人(武士)といった印象である。
しかし、児玉源太郎先生の最大の功績は、日露戦争を勝利に導いたことであろう。
その前には、台湾総督時代(1898-1906年)には、それまで強圧的な統治政策を融和政策に
切り替え、後藤新平を抜擢し、インフラ整備・産業振興・教育・医療など台湾人の生活向上
に尽くしたのだ。すると、それまでの抵抗運動も影を潜めて人々は児玉源太郎先生や後藤
新平を慕い尊敬するようになった。国立台湾博物館には、両氏の銅像や展示コーナーも
あり、日本との友好を深めている。近年の台湾からの観光客増大や東日本大震災で200億円
もの民間義捐金を送ってくれたのも、児玉源太郎先生の総督時代の仁政が根本にあるのだ。
李登輝中華民国元総統の「浩気長存」の揮毫によるものであるのを見ても窺える。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191207/12/toukaku2019/95/db/j/o0448029914663548472.jpg?caw=800)
児玉神社
さて、日露戦争と先生のことであるが、明治36年対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次
長が急死したため、参謀本部総長の大山巌に特に請われて内務大臣・台湾総督を辞してい
る。この降格人事を引き受けたのは、日本陸軍軍人のなかで(昭和20年まで)只一人だそう
だ。まさに松陰先生の「やむにやまれぬ大和魂」というべきか。当時の日本政治は、伊藤博
文公のような高潔な人も居たが、多くは俄かに地位や金品を得た人達もおり、慢心した政治
家・軍人が多くいたのは確かである。西郷隆盛などもこの点で堕落した政治に見切りをつけ
た感がある。そうした風潮のなかで、源太郎先生の参謀入りは国民にとっても快挙であった
かも知れない。とにかく、彼の才能や人柄を高く評価されたわけで、日露戦争では、満州軍
総参謀長・陸軍大将として遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦・日露戦争終戦まで参加して任務
を全うした。203高地の激戦や旅順港攻略は、映画や小説などでもよく知られているところ
である。筆者は、過去203高地や旅順港・出師営を旅行したが、203高地の忠魂碑の爾霊山
は、にれいさんと乃木希典が漢詩で詠んだということを聞いて感動したものである。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191207/12/toukaku2019/c5/19/j/o0594043414663548479.jpg?caw=800)
児玉源太郎先生は、日露戦争においては満州軍総参謀長として、国家に尽くした忠節は多大
で等しく満天下の認めるところである。と児玉神社の由来を述べてある。
もう一つの児玉源太郎頌徳(しょうとく)碑の方は、児玉先生が台湾総督を務め、後藤新平
と共に台湾人の生活向上に貢献したことの碑である。後藤新平の揮毫による「徳足以懐遠」
は、”徳足るをもって遠くを懐かしむ” と読める。児玉台湾総督の下で民政局長をした後藤
新平は、児玉源太郎先生を大変慕っていたということから、恐らく二人で台湾統治を成功させ
たことを懐かしんで揮毫したのではないだろうか。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20191207/12/toukaku2019/e9/b0/j/o0448029914663548486.jpg?caw=800)
児玉神社扁額
この扁額の筆は、児玉源太郎先生の御長男であらされる児玉秀雄氏による。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20191207/12/toukaku2019/5d/30/j/o0448029914663548492.jpg?caw=800)
児玉神社
児玉神社(正面)、奥に「軍神」の額も掲げられている。二に三ツ星の紋は、毛利家の
一に三ツ星にも似ている。二に三ツ星は、長井雅樂の長井氏の家紋で元は大江氏である。
この大江氏の末裔が安芸毛利元就であり、家紋は一に三ツ星である。日本の氏族児玉氏の
家紋は唐団扇に五枚笹であるが、安芸児玉家の家紋は不詳である。
しかし、一族の児玉元良の娘は毛利輝元に嫁いで、萩藩主・毛利秀就、徳山藩主・毛利就隆
を産んだ。以上のことから児玉神社にある二に三ツ星紋があるとも想像できる。要するに
毛利宗家に遠慮して一を使わず二にしたのだ。筆者の勝手な想像だが、今度、社務所に
聞いてみるので、真相はお預け願いたい。
さて、李登輝元台湾総統が児玉源太郎先生の為に書いてくれた「浩気長存」だが、云うまで
もなく浩気は、浩然の気のことである。公孫丑(孟子の弟子)が孟子に浩然の気について
尋ねた答えが、それは、至大至剛(この上なく大きく、このうえなく強いさま)にして正し
い心を養って 害(そこ)なわければ、それは天と地の間に満ちている気として感じるもので
ある。 その(浩然の)気は義と直によって成り、義と直がないと萎えてしまう。
これは、義に集るところに発生するものであり、義を襲って取れるものではない。
行動に心がやましいところがあれば、それは萎えてしまう。《東郭訳》
長存は、長く存在することで、たもつと読む。即ち”天地にみなぎる精気をたもつ”という事で
あり、李登輝元総統が児玉源太郎先生へ贈った言葉の意味は、まさに、先生の生涯や台湾統治
の成功、日露戦争の勝利など浩然の気そのものであると言っている。李登輝元総統は、外国人
で、最もよく日本語を話し理解している人物と言われ、京都帝国大学・台湾大学・アメリカ
アイオワ州立大学に学び、農業経済学者、政治活動家・拓殖大学名誉博士でもある。
以上から、児玉源太郎先生の精神は、現代においても生きていると言える。
特に、周南市(旧徳山市)市民は、彼の幼き日の苦労を思いやり、彼の偉業をよく受け継ぎ、
更に発展させるべく、日々精進して戴きたいと思う。筆者も児玉源太郎先生の生き様を見て
精進しているけれども、「徳足以懐遠」だけで終わらせはならないと思っている。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20191207/12/toukaku2019/7c/ae/j/o0328044814663548500.jpg?caw=800)
浩気長存(台湾元総統 李登輝氏)