徳山湾を杉ケ峠から眺望 | 周南市 東郭の世界

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徳山湾


周南市から萩市須佐までの国道315号線、総延長88.7㎞となっていますね。須佐の国道191号

が交点で、周南市は三田川の国道2号線交点となって結んでいます。山口県内には、山陽と

山陰と結ぶ道の一つですが、日本海と瀬戸内海を結んでいると云ってもいゝと思います。

しかし、須佐湾などを観て、山道をひたすら2時間余り、須々万から杉ヶ峠トンネルと抜けると

写真の徳山湾が見えて参ります。いや、この徳山湾の景色を見た時は、感動します。

杉ケ峠の標高は、456mだそうで、周南市街地からは、かなりの高さです。

徳山湾は、いま、周南コンビナートの工場群が並んで居ますが、昔は其処が、海軍燃料工廠

第3燃料廠でした。此処から見える一番向うの島が大津島?ですが、戦争中人間魚雷「回天」

の訓練基地在りました。その左が粭島・大島半島と徳山湾の囲んでいます。

ところで、史上最大の戦艦「大和」は昭和20年461518分に此処徳山湾粭島沖から

出撃します。

出撃する艦艇は10隻、第二艦隊旗艦大和以下、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月・涼月・磯風・

風・雪風・朝霜・霞・初霜だったそうです。

徳山湾沖に投錨したのは、徳山燃料廠からの燃料補給とされています。

さぞかし、壮観であったと思います。しかし、これらの艦隊は二度と戻って来ることはあり

せんでした。徳山市街地の大規模な空襲は5月10日と7月27日でした。

これにより徳山市街地の90%焼失、徳山は壊滅しました。というより、全国180都市も同様

な空爆被害を受けたのです。

あれから、73年経ちました。ちょうど私の生まれた年です。

そういう徳山に生まれて、この齢まで元気に過ごしてこれたのは、平和になったということ

が、大きな比重を占めています。

小学校6年の時、出光興産が旧燃料廠跡地に開設され、次々に石油化学メーカーも工場を建てま

した。折からの高度成長経済で、徳山の町も人で溢れ、銀南街・中央街・みなみ銀座などは

通るに通れない程の人混みでした。人々は、戦争の痛手など全くなかったように浮かれていま

た。勿論、私もこんな好景気が永遠に続くと思っていたのです。ところが、石油ショックや

バブル崩壊、リーマンショックなど日本経済がガタガタになると、先の出光興産を基幹産業と

した周南コンビナートも冷え切ってしまいました。ボーリング場や映画館は10軒以上あったと

思いますし、スケートリンクなどもありました。企業人が多いので、あれ程栄えた飲食街も

企業の成績低迷で閑古鳥が啼く始末です。ついには、大手の百貨店迄閉店してしまい、

商店街は、紛れもなくシャッター通りになってしまいました。

近年は、少しずつではありますが商店街なども様変わりして人が来るようになっていますが、

企業城下町であったことの付けが回って来たとしか、言いようがありません。

出光興産徳山の石油製造設備は撤退し、解体されました。それはそれで、企業も一生懸命利益

確保の施策を講じているので仕方りませんが、去ったあとの徳山には、なにも残っていなかっ

たという事実です。市も企業に頼り過ぎて、他の生産基盤を育成する努力をしなかったから

です。ここで、住みよさランキングを例にとると、中・四国地区では、下松市が第一位です。

県内では、山陽小野田市6位、柳井市が14位です。周南市のランキングは、中四国で92市で

51位です。光市は、同様に50位です。特に下松市は、10年連続第1位という評価です。

まあ、各市の人口も面積も違いがありますが、先の企業依存度の観点からみると、その特質が

窺えます。一番企業に頼っているであろう周南市や光市が同じようなランクであり、進出企業

が衰退した下松市や柳井市・山陽小野田市が、住みよさランク上位になっているのは、皮肉な

ことです。企業が衰退しても昔からの生活基盤がしっかりしている地区・市が上位になって

います。一般市民の生活が企業に頼らなくても維持できる度合いが高いということは、どうい

うことでしょうか? 農業や漁業や林業や職人の仕事が十分あるからです。それに昔からの

伝統の文化を大切にしたりする市民の団結力にも差異があるからではないでしょうか?

今、周南市のホテルグラマシーの解体をしています。なんでも宴会部門を止めるとか?

私達市民は、ホテル丸福の時代から親しんで来ただけにショックです。内情は判りませんが

採算が採れなくなったからだと思います。まあ、ビジネスクラスのホテルはいっぱいあるから

いいやという向きもあると思いますが、残念なことです。

周南市だって観光資源はいっぱいあるし、新幹線は停車するし、観光客だって来て貰う方策

を考えれば全国からどんどん来ます。

東郭は、一体何を云わんとするや? という話ですが、どうも市民として情けないので、

市政を中心として確かなビジョンのもと、努力せねばならない事だと思います。

市を主導するのは、市長はじめ市議や職員の皆様方です。「周にやん市」などと言ってない

で、生産性のある事業展開をして戴けないものかと思います。

なるほど、徳山駅ビルの市立図書館などは、非常に盛況で市民の知識欲の旺盛さには驚かされ

ます。けれども、徳山は、児玉源太郎の児玉文庫が在りました。ご存じ郷土の偉人児玉大将

が後進の育成のため明治36年建てた私立の図書館です。徳山空襲で焼失してしまったのです

が、その時の蔵書は40,000冊を超えていました。徳山市民の読書好きもその頃から続いている

と思いますが、その児玉源太郎の思いを無にしてはなりません。徳山の文化拠点として

児玉文庫を再建しなければ、なりません。旧徳山藩の藩校興譲館の蔵書もまだ、残っている筈

ですから、毛利徳山藩時代からの図書館ということになります。ただ今、市立美術館で

明治維新150年と児玉源太郎展を催していますが、台湾総督時代のことは、述べていません。

児玉源太郎は、台湾総督であったとき、日露戦争を控え、陸軍に要請され2階級降格の参謀次長

を引き受けます。結果、参謀長として日露戦争を勝利に導きますが、降格した人事を引き受け

たのは、陸軍解体まで、児玉一人だったそうです。それほど、熱意の人でありました。

不思議なのは、国立台湾博物館で、総督であった児玉源太郎と後進の後藤新平の像が飾られて

いることです。彼らの統治精神は台湾の方々にも広く受け入れられ、今でも国立台湾博物館で

顕彰しているのです。東日本大震災の莫大な台湾から義援金寄付や台湾人旅行者が多いのも、

こういう児玉源太郎の遺業があるからです。現在の徳山小学校横にある児玉神社には、台湾の

五葉松が植えられている筈です。

児玉文化の歴史的遺産を顕彰することもそうですが、台湾の方々が如何に児玉源太郎という

人物を大切に思っているかをご理解いただき、東郭としては市としても、児玉源太郎顕彰の

実をあげていく方向で、検討して戴きたく思います。

台湾の前の総統李登輝氏は、こうした児玉源太郎との絆を大切にし、「活氣長存」の揮毫を

児玉神社に贈っています(2006年)。

周南市としても、市民の心を大切にし、積極的に児玉源太郎の生地としての誇りを忘れずに

事業展開されんことを望みます。            《2018.9.17 周南市 東郭》