
【碑文】
世間は生きている 理屈は死んでいる 勝海舟
【漢文】
人世問、歪理不会長久
【解説】
世の中のことは、時々刻々変遷極まりないもので、機来たり機去り、その間実に髪を
容れない。こういう世界に処して、万事、小理屈をもって、これに応じようとしても、
それはとても及ばない。世間は生きている。理屈は死んでいる。《出典:氷川清話》
※”小理屈で時勢に対応しようとしてもそんな事では対応出来ない” との意だと思いますが
勝海舟が江戸弁で言うと、いかにも説得力があります。小気味いい彼の生き様にも共
感する方も多いと思います。幕末から明治にかけて他にはみられない慧眼をもっていま
した。その中で当時の支那の事を下のように言っているのが、秀逸です。
世間では(日清戦争を)百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代らうが、敵国が来り国を取らうが、殆ど馬耳東風で、はあ帝王が代つたのか、はあ日本が来て、我国を取つたのか、などいつて平気でゐる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、誰が来て国を取らうが、一体の社会は、依然として旧態を損して居るのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体(からだ)を蚊(か)か虻(あぶ)が刺すくらゐにしか感じないのだ。ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人はとても支那人には及ばないだらうと思ふと、俺は密かに心配するヨ。《出典:Wikipedia》
今、テレビでお濠の掃除をする番組をやっていましたが、日本もお堀の水を抜いて掃除した
方がいゝですね。そうしないとお濠の水が腐ってメタンガスがブクブク湧き出します。この
メタンガスは、現在の日本の政治でも体育協会でもメディアの世界でもあらゆるところに
見られます。国会論争でも人のミスを追求してばかりで、本来の「正心誠意」(勝海舟)の
欠片も見られないのが現状です。まあ、こんな低次元の国会なのは、日本が平和だからと
いう見方も出来ますが、勝海舟のいう支那人に及ばないという心配は的を得ているのでは
ないでしょうか?
【作者】
勝 海舟 / 勝 安芳(かつ かいしゅう / かつ やすよし、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉 - 明治32年〈1899年〉1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。
山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。
父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末の剣客・男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる。家紋は丸に剣花菱。
10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。
李鴻章を始めとする清の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。《出典:Wikipedia》