【鉄道の父】長州五傑の井上勝は日本の鉄道建設に貢献した。 | 周南市 東郭の世界

周南市 東郭の世界

Yahoo blog経歴10年でアメブロへ移行しました。
一応、貴重な記事・画像は移行成功しているようで、引き続き東郭の世界を楽しんで下さい。令和元年から新しいアメブロで頑張ります。 “ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ”

山口県の萩駅に旧萩駅舎と鉄道コーナーには、長州ファイブの写真が掲げられ、その中の一人

井上勝の業績を讃えている。

長州ファイブは、文久3年(1863年)藩主毛利敬親公から洋行を命じられ、約半年掛けてロン

ドンに到着した。時代背景は、黒船ペリー艦隊が1853年に来航以来、幕府体制が揺れに揺れて

いる真っ只中である。1867年には大政奉還となる歴史のなかで、敬親公は英国留学を命じる

とは、先見性のある名君というべきである。なによりも、この5名が揃って帰国後、それぞれ

に明治時代の基礎を築いてきたことは、今日の日本の基礎ともなり、長州人としても誇って

いゝ。今回紹介する鉄道の父「井上勝」は、そのなかで日本の鉄道普及に貢献したのだ。

世界最初の鉄道は、英国ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で1825年開業である。

産業革命のなかで蒸気機関車がその後の世界経済を牽引した。そのなかで、日本では1872年

新橋・横浜間を全線開業させたが、主にはイギリスで鉄道技術を修めた井上勝が尽力したので

ある。

今年2017年3月5日に下松市の日立製作所笠戸事業所から英国へ輸出される高速鉄道車両を

見学に行ったが、実は全部で866両で総額8000億円となる膨大な受注であると聞いた。

鉄道技術をイギリスで最初に習得した日本人「井上勝」が日本の鉄道を普及させてから、

鉄道マンが技術研鑽を怠りなく、145年間後の今日に、逆に鉄道車両技術を英国に輸出した

意義というのは、真に大きい。結果的には、英国より学んだ鉄道技術に恩を返した形になった

けれども、それよりもこの間、日本人の弛まぬ努力と向上心が技術を磨いて来た結果であり

今後も、この精神でコツコツ頑張ればどの分野に於いても明るい未来がやってくると思う。

                         《2017.10.23 周南市 東郭》


イメージ 1
イメージ 2


井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)

8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等

子爵。幼名は卯八(うのはち)、通称は弥吉(やきち)。

鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッ

ジ・ロンドン卒業。《出典:Wikipedia》





イメージ 3


 井上勝の留学と鉄道

文久3年(1863年)3月10日にジャーディン・マセソン商会から長州藩が購入した船・癸亥丸の船長に任命され、測量方の山尾庸三らと共に横浜から京都まで航行、23日に兵庫港へ到着した。

そこに藩家老・周布政之助の工作で藩主毛利敬親から外国旅行を命じられ5月12日に脱藩。

イギリス総領事による斡旋の下、後に長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれることとなる井上馨・山尾・遠藤謹助・伊藤とジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)に密航し渡英、上海でホワイト・アッダー号に乗り換え長期間船旅を過ごした末に10月にロンドンへ到着、明治元年(1868年)までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)にて鉱山技術・鉄道技術などを学ぶ。

途中、元治元年(1864年)に井上と伊藤が帰国、翌慶応元年(1865年)に薩摩藩第一次英国留学生と出会い日本人同士の交流を喜んだのもつかの間、藩からの費用が少なくなり困窮、慶応2年(1866年)に遠藤も病気の悪化で帰国するなど苦境が続く中で明治元年9月に無事卒業を果たした。

同年、木戸孝允の「母国で技術を役立てるように」との再三の要請により11月に山尾と共に帰国。

長州藩へ戻り実家と復縁し、父の名前から1字取り井上勝と改名、長州藩から鉱山管理の仕事を任されていたが、明治2年(1869年)に木戸の呼びかけに応じ新政府に出仕、10月に大蔵省造幣頭兼民部省鉱山正となり(当時大蔵省・民部省は合併していた)、先に大蔵省へ出仕していた伊藤に仕え近代事業に携わることになる。《出典:Wikipedia》







イメージ 4


萩駅前 井上勝銅像







イメージ 5


東京駅前 井上勝初代銅像

鉄道事業の推進

政府はイギリス人技師エドモンド・モレルを中心として敷設事業を展開、勝はその下で実技を習得しつつ路線を敷くことを始め、先の構想に基づき新橋駅 - 横浜駅(後に桜木町駅に改称)間の鉄道に着手、合わせて明治3年(1870年)10月19日に新設された工部省に所属を移し、山尾と共に工部権大丞となり、翌明治4年(1871年)7月23日に工部大丞に昇進、8月15日に鉱山寮鉱山頭と鉄道寮鉄道頭も兼任(後に鉄道頭を専任)、鉄道事業との関わりを本格化させていくことになる。

明治3年3月17日の測量から始まった新橋 - 横浜間(29km)敷設は鉄道頭では無かったため直接関与はほとんどなかったが、鉄道建設を反対する一般国民や政治家達(黒田清隆など)の説得に当たり、海上に線路を敷くために手掛けた築堤工事に参加、明治4年9月23日に建設途中で死去したモレルの後を継ぎ工事を継続させるなど間接的に工事を推進、明治5年(1872年)9月12日に全線開通させ日本の鉄道開業に尽くした。

また、明治3年7月30日に開始された神戸駅 - 大阪駅間(32.7km)に続く明治4年6月15日の大阪駅- 京都駅(43.4km)の測量に加わり、お雇い外国人が見積もった金額より安い算出で工事変更を工部省に願い出て許可され、鉄道知識と手腕は外国人にも引けを取らない物になった。《出典:Wikipedia》






イメージ 6
イメージ 7


         初代 井上勝銅像台座飾り石が展示されている。



イメージ 8