長岡外史(ながおかがいし)が、リニューアルなった国民宿舎「大城」に現れました。
都濃郡末武村に生まれ、徳山藩士長岡南陽の養子となり、明治期の軍人・政治家でした。
スキーの父、航空の父と異名をもつ人です。
昨年、笠戸島の入合山(外史公園)に大きな髭の銅像が或るのを見て、ブログに載せて戴き
ましたが、先週 国民宿舎大城に、長岡外史の木像があるのを発見しました。
《2017.5.17 周南市 東郭》

長岡外史

【長岡外史(ながおかがいし)】
長岡 外史(安政5年5月13日~ 昭和8年4月21日)76歳没。
明治、大正期の陸軍軍人、政治家。スキーの父、航空の父の異名
【経歴】
周防国都濃郡末武村(現・山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・
長岡南陽の養子。明倫館を経て、明治11年(1878年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。
明治18年(1885年)に陸軍大学校を一期生として卒業。
日清戦争では大島混成旅団の参謀、明治30年(1897年)には軍務局第2軍事課長を勤め、
ドイツ派遣を経験する。明治35年(1902年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務め
る。明治37年(1904年)からの日露戦争では大本営陸軍部参謀次長として行動した。
明治38年(1905年)、5月末の日本海海戦における圧倒的な勝利ののち、ロシア帝国との
講和条件を少しでも日本側に有利なものとするため、講和会議に先立って樺太を占領すべき
であると考え、長岡は樺太占領作戦を軍首脳に上申したが、海軍は不賛成であり、陸軍参謀
総長の山縣有朋もこれに同意しなかった。そのため長岡は、満州軍の児玉源太郎に手紙を書
いて伺いを立て、その返信を論拠に説得作業を展開、これにより7月以降の樺太作戦が決まっ
た。結果的に、この作戦は9月5日成立のポーツマス条約における講和条件のひとつである南
樺太割譲に大きな影響をあたえた。
明治41年(1908年)には軍務局長となり、翌年には陸軍中将に昇進。臨時軍用気球研究会
の初代会長を兼務した。次いで第13、16師団長を務め、大正5年(1916年)には予備役と
なる。大正13年(1924年)5月、第15回衆議院議員総選挙に山口県第7区から出馬して
当選し議員となる。《Wikipedia》

外史は、先入観や慣例にとらわれず新しいものを受け入れる柔軟な思考能力を有していた。
新潟県高田(現在の新潟県上越市)の第13師団長時代、視察に訪れていたオーストリアの
軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐が伝えたスキーを軍隊にはじめて導入し
た(これが日本スキー発祥と言われている)。
旅順港攻略に際しても、海岸砲の導入を具申され、積極的に後押しをしたなどの功績があ
る。しかしながら発想が奇抜で、思いつきに過ぎない現実性のない構想を実行しようとして
周囲を混乱させたこともあった。
この一方、飛行機の開発について自身の先見性のなさに後
で気が付くと、一兵卒出身であった二宮に対しわざわざ出向いて謝罪するなど、内省的で自
分に厳しく他人への配慮を忘れなかった。常に周囲の意見に耳を傾け、自身の誤りに気づく
と反省し、自ら即時に改めたので大過なく職責を全う出来た。
これによって多くの人に慕わ れ敬愛された。
一方、「プロペラ髭」と呼ばれる長大な髭を蓄えており、本気で自慢するなど、不可解な面
もあった。この自慢の髭は最長で70cm弱にも達したという。《Wikipedia》

入合山の外史公園の長岡外史銅像