
国道315号線も杉ヶ峠の下りに差し掛かると眼下に徳山湾の碧い海がスポットライトを浴びたように明るく輝いて見えます。
ところが、71年前の徳山は米軍機の攻撃を受け壊滅的被害を受けました。当時、いま見える海岸地帯は、第3海軍燃料廠や大浦製油所がありました。日本有数の軍事施設です。
昭和20年5月10日午前9時52分マリアナから飛来したB-29爆撃機110機は、2,017個の爆弾を投下し、人的被害は死者500人以上、負傷者1000人余りに達しました。父は燃料廠勤務で被災は免れましたが、同僚達の荼毘に連日通いました。
更に7月27日午前0時22分には、再び98機の米軍機B29の波状攻撃を受け焼夷爆弾2,206個、焼夷弾3,210個、破砕収束弾167個が徳山市街を焼き尽くしました。
この時の死者は482人、負傷者は469人と云われています。徳山市街の90%が焼け野原になったとのことですが、私の住んでいた東金剛山地区にもこの焼夷弾(M69)が降り注ぎ、あの何とも言えない焼け焦げた匂いの六角形の焼夷弾が突き刺さっているのを覚えています。この市街地焼き打ち作戦は、日本の180ヶ所で行われたのです。
日本は、他に類を見ない惨状から力強く復興を成し遂げました。最早焼け焦げた人々をリヤカーで運ぶような悪夢は、あってはなりません。
今、杉ヶ峠トンネルから抜け出て、この徳山湾の景色を眺めたとき、平和の有り難さをつくづく感じます。
《2016.8.10 周南市 東郭》