成瀬仁蔵先生の誕生の地が山口県山口市吉敷にあるというので訪ねてみました。
NHK朝ドラ「朝が来た」で成澤泉と云う役で日本女子高等教育の為に奔走する姿が描き出さ
れていました。主人公広岡浅子の活躍を実に痛快に物語っていて大変面白かったのですが、
成澤泉→成瀬仁蔵→長州藩(山口県人)というのは、初めて知りました。
明治維新というキーワードのなかで長州藩の尊王攘夷の志士が多く語られ、私達もある程度
の知識は幼い頃より聞いて得ていましたが、成瀬仁蔵先生も長州藩士の子で志を立てて教育
普及に携わったのです。多くは明治政府の要人になりましたが、成瀬先生のように民間での
活動は、あまり知らないのが現状だと思います。けれども、幼い頃の教育が、人間形成や
仕事の活躍に随分役立っていることを思うと、単に同郷であるからというのでなく、教育の
場が山口県にあり、更には外国へ留学するなど大きな仕事をした長州ファイブとおなじよう
な道を歩んだ土壌があるのかも知れない、と考えるようになり、誕生の地で少しでもその
雰囲気があれば接してみたいと訪ねてみました。
《2016.8.3 周南市 東郭》
国道435号線に成瀬仁蔵誕生の地の案内板がある。
成瀬仁蔵氏誕生地記念碑(日本女子大学校創立者)
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、1858年8月2日(安政5年6月23日) - 1919年(大正8年)3月
4日)は、明治から大正のキリスト教牧師(プロテスタント)であり、日本における女子高等
教育の開拓者の1人であり、日本女子大学(日本女子大学校)の創設者として知られる。
出生から就職まで
周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬家はもとは河崎姓
で、仁蔵の父・小左衛門の代に成瀬姓を名乗る。小左衛門は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利
家に仕える下級武士。仁蔵は長男。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家
の娘。
仁蔵は幼少時は郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に
住み込む。この年には父の小左衛門が死去し、山口の教員養成所の2期生となる。1876年
(明治9年)に卒業し、小学校教員となる。《Wikipedia》
書は公爵毛利元昭は、毛利敬親公の世子毛利元徳の長男です。子供がなかった
敬親公は、徳山藩から養子元徳を迎えています。毛利家28代当主元徳公が、
長州藩最後の藩主です。元徳の名は、元(もと)徳山(とくやま)から来たので
名付けられました。
米国留学
1890年(明治23年)にはアメリカへ渡る。アンドーバー神学校、クラーク大学で教育学や
社会学、キリスト教などを学び、ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察し
て女子教育研究を行い、1894年(明治27年)に帰国。《Wikipedia》
日本女子大学校設立へ
第5代梅花女学校校長を務め、女子高等教育機関の設立に着手。成瀬はこの梅花女学校校長時
代に日本初となる「球籠遊戯」(日本式バスケットボールの原型)をカリキュラムに採用、
後に自らが創立した日本女子大学校でも「球籠遊戯」をカリキュラムに採用していることか
ら、成瀬はバスケットボール紹介者のひとりと言われている。《Wikipedia》
死後
生家跡は1934年(昭和9年)に山口在住の卒業生有志によって、成瀬公園として整備され
た。公園内に設置された記念碑は毛利本家第29代当主の毛利元昭(貴族院議員)の揮毫に
よるものである。《Wikipedia》
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成瀬仁蔵先生 建学の精神と教育理念
日本女子大学が創立された1901(明治34)年の当時は、あらゆる面で男女の不平等がみられ、女子の高等教育に対する一般の理解も、きわめて低い時代でした。そのような時代において、わが国で最初の組織的な女子高等教育機関である日本女子大学校を開校した成瀬仁蔵は、人格教育を基本とした女子高等教育のモデル校として、本学の発展と充実に努めました。
また成瀬仁蔵は没する直前に、その教育理念を集約した三綱領「信念徹底」「自発創生」「共同奉仕」を遺します。
自らの人格を高め、使命を見出し、全身全霊を尽くして前進することを示す「信念徹底」。
各自の創造的能力の尊重と開発に努める「自発創生」。
より良い社会をつくるための連帯感と協調を図ることを教える「共同奉仕」。それは広い意味でのヒューマニズムといえます。
《日本女子大学HP》
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