
柳井市の東海岸、国道181号線の遠崎に妙円寺があります。
海防僧 月性は、ここで生まれました。幕末に活躍した尊攘派の僧で吉田松陰の思想にも
大きな影響を与えた人物です。久坂玄瑞の兄 玄機と月性は親友だったそうですが、久坂家
の不幸は、玄瑞15歳の時、兄玄機を亡くし次いで父も失っています。前年には母も亡くして
天涯孤独の身になった玄瑞に手を差し伸べたのが、兄の親友である月性でした。吉田松陰に
玄瑞を紹介したのも月性と云われています。月性は、松陰より13歳年上であり尊攘思想や
海防策を長州藩に請われて毛利敬親公へ建白した程の人物ですから、当時の長州藩首脳にも
大きな思想的影響を与えました。藩は彼を招いて時局講演会をして尊王攘夷や海防策の思想
を学んでおり、吉田松陰も松下村塾を休講して、塾生達と聞きに行ったそうです。
斯様に月性は、吉田松陰の兄貴格であり、もう一人の親友土屋蕭海らと同じ世代でありま
す。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では、この時代の人物交流が語られておらず残念でしたが
吉田松陰といえども、玉木文之進の教えだけで成長した訳ではありません。松陰は、月性の
海防策に心を同じくして、手紙のやり取りなども敬意を込めていますので尊敬する友人で
あったのだと思います。
月性(げっしょう、文化14年9月27日(1817年11月6日) - 安政5年5月11日(1858年6月2
1日))は、江戸時代末期(幕末期)の尊皇攘夷派の僧。周防国大島郡遠崎村(現在の山口県
柳井市遠崎)、妙円寺(本願寺派)の住職。諱は実相。字は知円。号は清狂・烟渓・梧堂。
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し
名士と交流した。長門国萩では益田親施・福原元僴・浦元襄などに認められ、吉田松陰、久
坂玄瑞らとも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を
唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を
叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血
漢で、詩をよくした。「・・・人間到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東
遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者と
しても名高い。安政5年(1858年)5月、42歳で病死した。《Wilipedia》

将東遊題壁 将に東遊せんとし壁に題す
《釈 月性》
男児立志出郷關 男児志を立てゝ郷関を出ず
學若無成不復還 学若し成る無くんば復(また)還らず
埋骨何期墳墓地 骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地
人間到処有青山 人間(じんかん)到る処 青山有り
☆月性は、詩人としても優れており生涯千篇詠んだとされています。
この詩は彼の著「清狂吟稿」のなかにあり、男児立志の詩として特に有名です。
この詩は、”学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地”としているものもあるようですが詳細は
分かりません。
ただ、「人間到る処青山あり」は、諺にもなっていて、”故郷ばかりが墳墓の地ではない、
人間の活動の出来る処はどこにでもあるの意、大望を達成するために故郷を出て大いに活動
すべきことをいう。《広辞苑》と説明しています。クラーク博士が”Boys be ambitious”と
言ったのと同じような意味でしょう。
ただ、月性はこの「將東游題壁」を大阪へ遊学する27歳の時、自分の決意を詠んだもので
漢詩としても、その心情がよく伝わって来ます。
長州の偉人として、また、紹介する機会もあろうかと思いますが、友人の周防の國直兵衛氏
が、月性生誕の妙円寺で彼の詩を吟じ、僧 月性を毎年顕彰しています。
私も、月性のように隠れた偉人も長州の宝として紹介したいと思います。
《2016.2.23 周南市 東郭》