長州藩家老益田親施を祀る須佐笠松神社 | 周南市 東郭の世界

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9月22日、萩市須佐の笠松神社に参拝に行って来ました。
 
笠松神社というのは、”益田家33代贈正四位親施(ちかのぶ)を祀る。
 

境内の鳥居と灯篭に刻まれた元治3年、4年(元治年号は2年しかない)の刻銘は君主の悲憤

 
を想い、徳川慶喜に応ずるの意を想わせる。


「慶応」の年号を認めぬ反骨精神の現われで、美弥郡美東町大田の金麗社に同様のものが
 
あります。《須佐観光協会HPより》”の「元治3年、4年の刻銘」を見るのが、目的で
 
ありました。と申しますのも私は徳山の住人であり、益田親施公は、禁門の変の責任を
 
取って徳山藩に預けられ、元治元年11月11日益田親施は惣持院で幕府の命により切腹させ
 
られた悲劇に関心があったからです。
 
当ブログ2004.2.2「三太夫殉節の碑」に関連記事を投稿しています。
 
                         《2015.10.3 周南市 東郭》

 
 
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     みこと館は、須佐之男命(スサノオノミコト)から取った名前です。
 
 
 
 
 
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     萩市須佐歴史民俗資料館(萩市須佐4441-19 ☎08387-6-3916)

 
 
 
 
 
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  みこと館は、道の駅「ゆとりパーク田万川」の観光案内で笠松神社を訪ねた時、
 
  古老から「笠松神社」へ行くのなら是非、みこと館へ行ってみなさいと紹介された
 
  のです。
 
  みこと館の学芸員の方には、とても熱心に解説戴きました、有難うございました。 
 
 
 
 
 
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益田親施公像
 
 
 
 
 
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益田親施
 

益田 親施(ますだ ちかのぶ、天保492日(18331014日)元治元年1111
 
1864129日))は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。益田家第33代当主。
 
長州藩永代家老・須佐領主益田家14代。右衛門介(うえもんのすけ)の名で知られる。
 
益田元宣の三男。養子に妹・房子の夫となった益田親祥(ちかよし、毛利房謙の子)、
 
実子に親祥の養子となった益田精祥がいる。通称は幾三郎、越中、弾正。
 
諱は初め兼施(かねのぶ)、後に長州藩主毛利敬親より偏諱の授与を受けて親施と名乗る。
 
号は霜台、翠山。
 

生涯
 

天保4年(1833年)、益田元宣の三男として生まれる。母は益田房清の娘・孝子。
 
嘉永2年(1849年)、父・元宣が死去し、兄の親興(ちかおき)も既に亡くなっていた爲、
 
家督を継いだ。同年、吉田松陰の山鹿流兵学に入門。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国
 
のマシュー・ペリーが浦賀に来航すると、浦賀総奉行として着任する。安政3年(1856年)
 
には長州藩の国家老となった。安政5年(1858年)、通商条約問題が起こると、益田は周布
 
政之助らと共に朝廷の意思に従って攘夷を決行すべきと江戸幕府に提言し、「朝廷に対して
 
は忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」という藩の三大原則を打ち出した。
 
文久3年(1863年)には上洛して孝明天皇に謁見し、真木保臣らと共に過激な尊皇攘夷に
 
走ろうとした。しかし同年の八月十八日の政変で長州をはじめとする尊皇攘夷派が京都から
 
追放されると、益田は七卿落ちで朝廷から追放された7人の公卿と共に長州に帰国した。
 
その後、失った勢力を取り戻すため、翌元治元年(1864年)に上洛、福原元僴、国司親相、
 
久坂玄瑞や来島又兵衛らと共に出陣して長州軍の指揮を執るが、薩摩藩・会津藩連合軍の前
 
敗れ、長州に帰国した。
 
そして責任を取る形で領地の阿武郡須佐に引き込んだが、同年に行なわれた第一次長州征伐
 
で、幕府軍より益田に責任が問われて、徳山藩に身柄を預けられた後、惣持院にて切腹を命
 
じられ、死去した。法名は高正院大義全明。墓所は笠松山麓にある。《Wikipediaより》


 
 
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長州藩は、禁門の変で朝敵となり征伐されますが、幕府方の長州排斥論は強硬で、
 
毛利敬親公・世子元徳公を召し出せというものでした。また、奥州の方へ5万石へ減封し
 
移封する話も持ち上がっていました。この降伏交渉は長州吉川経幹と幕府方西郷の激論で
 
した。結論は、藩主の謝罪文提出、三家老切腹、四奉行斬首、5卿追放などでした。
 
親施公の切腹は、11月12日に決まっていたようですが、親施公を取り返そうとする不穏な
 
動きがあると云うことで11日に早めたそうです。長州藩は、この時保守派勢力が再び主導
 
する状況下になっており、奇兵隊志士などの正義派は命を狙われる身になっていました。
 
親施公を取りかえそうとする勢力は、その攘夷派や益田家の家臣団らと考えられますが、
 
歴史は、益田親施公ら三名を切腹させて、次の段階(四境戦争)に移っていきます。
 
 
 
 
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        徳山にある三太夫殉節の碑
 
 
 
 
 
 
 
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益田親施幽閉賜剣の地(旧徳山藩邸)
 
 
 
 
 
 
 
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                   益田館
 
         益田館は、歴史民俗資料館のすぐ隣にあります。
 
 
 
 
 
 
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                    益田館
 
 
 
 
 
 
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               笠松神社
 
 
 
 
 
 
 
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益田親施公像
 
 
 
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    ”萬山は重からず君命は重し、一塵は軽からず吾命は軽し”
 
 
 
益田親施公の自筆です。萬山不重は、大石内蔵助の愛刀にも刻まれているそうですが、
 
重さ軽さを萬山と君命、一塵と吾命を比べて強調されています。また、一句目と二句目も
 
対比させてあります。特に”一塵” は、幕命ともこれからの維新の新しい風とも解釈できま
 
す。
 
 
 
 
 
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     笠松神社の鳥居には、確かに”元治三年丙寅四月建之” の刻銘があります。
 
 
 
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        燈籠にも、実際の年号にない元治四年の刻銘が見えます。
 
 
 
 
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                  笠松神社本殿
 
 
 
 
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                  笠松神社拝殿
 
 
 
 
 
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          益田家 家紋「上り藤の久」
 
 
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益田親施は、萩明倫館開校直後享保年間1716年~1735年に育英館を
 
創設しました。長州藩の郷校としては最も早い創建です。当時、学問
 
の必要性を認識し全国的にも次第に藩校・郷校が創設されていきます。
 
此処では、吉田松陰と交流を図り、長州藩の人材を育てました。
 
長州藩の永代家老であった益田親施公は、明治維新の礎をなった人物
 
として評価されています。益田家は、現代の益田市や須佐の領民からも
 
慕われていました。善政の証であろうと思いますが、親施公の神社を
 
建てようとした家臣たちの思いは、切腹の命に殉じた無念さを鎮魂する
 
爲であったに違いありませが、その無念さを晴らすために、元号が
 
慶応になったのにも拘らず敢えて、元治三年・四年の刻銘をしました。
 
”慶応の元号を認めぬ反骨の精神”の現れとしていますが、いわば善政へ
 
の希求でも合ったわけで、益田家が33代の亘って築いてきた遺産と
 
云えると思います。平安時代から続いて来た益田家一族は、今も健在
 
であります。