【花燃ゆ】第36回「高杉晋作の遺言」の高良健吾さんありがとう | 周南市 東郭の世界

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東行庵
 
 
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第36回 ”高杉晋作の遺言” が9月6日に放映されました。
 
今回の主な内容は、高杉晋作の死に到るまでの事を毛利家や久坂家を絡めて主人公「美和」
 
が奔走する様子を描いています。時代は、慶応2年(1864年)で1月21日薩長同盟が
 
なって四境戦争が始まり芸州口・大島口・石州口・小倉口で激戦が繰り広げられます。
 
7月20日に将軍家茂公の死去により幕府軍は最後の小倉城を炎上(8月1日)させて
 
逃げたと伝えられています。9月2日には幕府と長州藩の休戦協定が結ばれます。これは
 
8月21日の勅命で長州征討中止が幕府に下ったからでした。高杉晋作が病気になったと
 
いうので、慶応2年2月23日萩から妻雅と息子梅之進、母道が下関に見舞いにやって
 
来ました。この家族は4月1日に萩に帰っています。晋作さんと愛妾「おうの」との
 
出会いは、慶応元年の初め前年の暮頃だろうと思われますが、4月ごろ身が危うくなった
 
時、愛妾「おうの」を連れて四国の日柳燕石のもとに行っています。ですから、萩より
 
雅、梅之進、道が見舞いに来た時は、下関で一緒に住んで療養していたのです。
 
この女性同士の葛藤はなかったようです。僅かな記憶ですが、二人は立場の違いが
 
ハッキリ判っていたし、当時の男性の芸妓遊びは悪いことではありませんでした。
 
芸妓も分を弁えていたし、妻もそれに対しては寛容でした。晋作さんが死んだのちも
 
連絡しあっていたといいますから、それが武士の妻というものだったのでしょう。
 
 
 
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「おうの」の墓
 
 
 
しかし、慶応元年の晋作さんは、松陰先生のいう四季を飾る偉業を成し遂げました。
 
病気にも拘らず、絵堂の戦いで勝利し藩論の統一に成功し、四境戦争に全力を傾注し
 
大島口を突破口にして、小倉口に戻り数次の小倉戦でも勝利を果たしました。
 
ドラマで、高杉晋作さんは、一緒に戦った奇兵隊士達を”みんなのお陰である!”と労を
 
ねぎらっていますが、自らは次第に病状が悪化し、翌年の慶応3年4月14日桜山で
 
還らぬ人となってしまいます。享年27歳でありました。
 
 
 
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高杉晋作墓所
 
そして、この年の10月14日が
 
大政奉還となりました。三家老の益田親施(ちかのぶ)は、禁門の変の責任を取って
 
切腹させられましたが、須佐の笠松神社(益田家33代当主親施)の鳥居と燈籠には
 
元治4年丁卯八月と刻まれています。旧臣たちが慶応の年号を嫌い、代わりに元治4年と
 
刻んだという逸話があります。益田家も高杉家も毛利家を慕い、また、政務役椋梨藤太
 
も藩主の為にと思って尽くしてきました。そんな日本人同士が戦い合うのは、まことに
 
愚かなことだと思えます。高杉晋作は、そういう戦いを終わらせた功労者という捉え方も
 
出来ます。幕府と長州との長州征伐は休戦協定が成立し、少なくとも双方の喧嘩は収まった
 
と言えます。ところが、日本国内の大きな流れである尊王攘夷運動は止むことがなく
 
幕府は、大政を奉還して倒幕の流れを変えようとしますが、今度は朝廷と幕府の戦いに
 
なってしまいます。しかも、幕府の諸藩は、大政を奉還すれば名目上の立場はなくなるので
 
やりようがないのです。こうして王政復古の大号令は、慶応3年12月9日に出されます。
 
この間、僅か2ヶ月弱ということは、幕府が坂道を転がるような状態だったことを暗示して
 
います。長州藩は、王政復古の朝廷会議で毛利敬親・定廣親子の復権が認められました。
 
8月18日の政変以来、長州藩が冤罪としてきた朝敵の汚名は、ここで晴らされたことに
 
なります。
 
                           《2015.9.7 周南市 東郭》
 
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