
高杉晋作像
遊清五錄(高杉晋作)
※五代才介(友厚)について書いてある一文が有りました。
薩摩より五代才介と申人千歳丸水夫と爲り上海に罷越せし様子なり、
五代者薩の蒸汽船之副将位之を勤者之由に而、段々君命を受て當地
罷越せし様子なり、追々心易成其論を聞くに歸國之上者、蒸汽船之
修復と申し立て、上海邊に交易に來る心得なり、上海渡海之事
開くれ者、欧羅斯、英吉利、亞米利へも渡海相成様開くならんと云う
蒸汽船買入之節之咄を聞くに餘程有益に相成り様子なり蒸汽船買入値段
十二萬三千ドル、日本金に直し七萬両。(103頁)
【東郭解譯】高杉晋作の遊清五録に、五代と中牟田の名前がよく出て来て
仲良しになったことを窺わせます。その文章には、薩摩藩より五代才介と
いう人物が千歳丸に水夫となって乗りこんだとあります。
安政元年にペリーが浦賀沖に来航し、日本国中大騒ぎになりましたが、
五代は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったというこ
とですが、早くから外国を意識した開国論者であったようです。
幕船「千歳丸」が上海視察するのを聞いて、懇願するも拒否されますが、
蘭通詞岩瀬弥四郎のはからいで、千歳丸の水夫に変装して乗り込んだ
のです。彼は薩摩藩の舟奉行副役で藩主の命により当地に罷り越した
とあります。追追(おいおい)心易くなってその話を聞くと、帰国
したら蒸汽船の修復をするといって上海あたりで貿易をしたい、
上海貿易が開かれれば、やがてはロシア、イギリス、アメリカとの
渡海貿易も出来るようになるはずだ、と云います。土佐藩の坂本龍馬
もこれと同じような考えを展開していますね。また、蒸汽船買付の
話を聞いて余程利益になる様子だったようです。晋作は、購入金額も
聞き出して、12萬3千ドル、日本金に直し7万両と書いています。
五代友厚が、上海で買ったのは、ドイツ汽船シャジギリー号で天祐丸
と改名して薩摩藩御用船となります、同時に五代は船長になります。
それにしても、7万両が12万3千ドルというのは、ちょっと解せま
せん。同時期 佐賀藩が買った甲子丸が十二万ドルで三万両ですし、
長州藩が買った壬戌丸(じんじゅつまる)も十二万ドルで3万両払って
います。高杉晋作が買った丙寅丸(へいいんまる)は、四境戦争の時
大島口で幕船を追い払いますが、購入代金は、3万6千両でした。
この船は、全長:36.9m 全幅:4.5m 機関:スクリュー式蒸気船です
が、ちょっと高いです。それでも、晋作が上海で五代から聞いた7万両が
12万3千ドルにはなりません。ひょっとしたら、最初30万ドルと吹っ掛け
られたのを12万ドルに値切ったという話もありますので、30万ドルで
あれば、7万両でも不思議はありません。しかし、当時の外国は、船と
云わず銃なども中古品を高く日本に売りうけたのは、事実です。最大の
原因は、不平等条約にありました。明治38年日本が日露戦争に勝利して
漸く欧米各国と対等な話が出来るようになり、明治政府はこれを撤回させ
ました。明治維新で日本は植民地化される悲劇にはなりませんでしたが、
安政5年江戸幕府が結んだ日米修好和親条約の不平等条約の為に半世紀は
苦労したのです。ですから、国際的な条約というものが、どれだけ日本に
制約をうけるかと云う事を江戸幕府は、知らないばかりか考えようとも
しなかったのです。明治政府にしても、江戸幕府が結んだ条約だからと
云って無効に出来ないのが、国際秩序です。日本はこの意味に於いて
昭和や平成の時代を見直してみる必要はありはしないかと考えて行動しな
ければなりません。特に政治家のみなさんには、くれぐれも此の事を
お願いしたいですね。
五代友厚が、薩英戦争でイギリス艦隊を追いかえした文がWikiにあり
ましたので、引用します。五代も高杉(下関講和)もやりますねぇ~

五代友厚
汽船を避難させ五代自らが命がけでイギリス船に乗り込み交渉した。
「地上戦となれば薩摩の10万人の侍、命を懸けて戦いに臨む。
英軍に勝算はなく退避せよ。」五代の熱弁と暴風雨が功を奏し被害はイギリス軍が
多く、五代の交渉力により、薩英戦争は解決した。《Wikipediaより》