高杉晋作(上海掩留日録)の六月十三・十四日は? | 周南市 東郭の世界

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豫園
 
上海掩留日録(高杉晋作)
 
 
六月十三日與中牟田夜歩遊門外、有米利堅人、導予及中牟田至其寓舎、此米人向者來横濱、故能解日本形勢、其話云、大阪開港則予復可至
日本、然昨看新聞紙、大坂開港大君已許之、而大名不欲許之、事起其間
故開港或可遅聞大名中水戸者最强大、信否、中牟田巧言、不對實而去、
因憶水府已丑寅以來有志死者數十人、外國人懼其雄、亦不宜矣。
 
六月十四日暁天與中牟田到西門外觀支那人錬兵、々々處乃防賊陣營、看
其兵法似威南塘兵法而非者銃隊以金鼓為令、操引操進、其餘無變化、銃砲盡中国制而甚不精巧、兵法與器械皆無西洋唯陣屋用西洋、歸路訪大南
門衛士玩松尋錬兵之事、筆話付錄、玩松云向者請英法兵法防長毛賊、近
日又使我兵卒學西洋兵銃、因賊懼不能近、由此言、支那兵衛不能及西洋
銃隊之强堅可知也、十二點鐘後歸館。
 
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長府 功山寺 高杉晋作像
 
 
【東郭解譯】
 
6月13日、中牟田と夜門外を散歩する、アメリカ人あり、予と中牟田をその寓舎に導く、
 
この米人はかって横浜に来た事があり、日本の形勢が解かっている。その話は大阪開港
 
は即ち日本に予め復するべし(※両都両港開市開港延期問題とは、日本の江戸幕末期に
 
おける外交問題。江戸幕府は、安政5カ国条約によって、江戸・大阪(両都)の開市と
 
新潟・兵庫(両港)の開港を約束していたが、国内問題によって、それを遅延せざるを
 
えなくなった問題である。)然しながら昨日新聞を看ると大阪開港は大君(幕府)已に
 
之を許す、而して各大名は之の許を欲せず、事の起こりはその間の開港或いは大名中最大
 
最強の水戸藩が遅らすべしと聞く、信否は如何に?、中牟田は言を弄してかわした。
 
(不対実而去・・・実ることなしに去った)因みに水戸藩已に丑寅以来の有志数十人の
 
死者と憶える(桜田門外の変、坂下門外の変)外国人その雄に懼れる、また宜しからずや。
 
 
 
6月14日暁天(夜明け)中牟田と西門へ到り支那人の練兵を観る。練兵處すなわち防賊の
 
陣營なり、その兵法は威南塘兵法に似て非なり、銃隊は金鼓を以って令とし、操引操進
 
(引いたり進んだり)、その余りに変化無し。(晋作は長毛賊が迫っている現在、型だけ
 
に留まっている軍事訓練を観てやるせない思いをしたのでしょう。)銃砲はすべて中国製
 
で不精巧、兵法と器械はみな洋式のものは無し、ただ陣屋のみ洋風を用いる。帰路、大南門
 
の衛士 玩松を訪ね、練兵のことを尋ねる。(筆話付錄)、玩松云う、さきには長毛賊防衛で
 
英・仏の兵法を請う、近日また我兵を使わして西洋兵銃を学ぶ、賊が近くなくても懼れる
 
ことに因る(因みに賊を懼れ不能に近い)。この言により支那兵、衛不能及び西洋銃隊の
 
强堅なるを知るべし。12時の鐘が鳴って歸館した。
 
 
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《東郭ブログ 過去映像より》