
留 魂 録
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
十月念五日 二十一回猛士

吉田松陰先生
留魂録 末尾
【原文】
かきつけ終りて後
心なることの種々かき置ぬ思残せることなかりけり
呼たしの聲まつ外に今の世に待へき事のなかりける哉
討れたる吾をあわれと見ん人ハ君を崇めて夷拂へよ
愚なる吾をも友とめづ人ハわがとも友とめでよ人々
七たひも生かえりつゝ夷をそ攘はんこゝろ吾忘れめや
十月廿六日黄昏書 二十一回猛士
【読み下し文】
かきつけ終りて後
心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ思いのこせることなかりけり
呼びだしの声まつ外(ほか)に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇(あが)めて夷(えびす)払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷(えびす)をぞ攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや
十月二十六日黄昏(こうこん)書す 二十一回猛士
【用語解説】・・・《吉田松陰.Com》
心なること=心の中に思ったこと。
呼び出し=牢獄で罪人に処刑を申し渡すため、呼び出すこと。
君を崇めて夷払へよ=尊皇攘夷の心を詠む。
めづ=慕う。
七たびも生きかへりつつ...吾れ忘れめや=七生報国(七たび生まれかわって
国恩に報いること)の決意を詠んだ。忘れめやは決して忘れまい、の意。
黄昏=夕暮れ。
二十一回猛士=松陰の別号。
松陰先生は、伝馬町の牢獄西奥揚屋で安政6年10月25日から26日の
夕暮れまで掛かって、留魂録を書き遺します。(二通作成した)
この留魂録が発見されたのは、明治9年(1876年)のことで、同囚の
沼崎吉五郎に託されたものが、17年後に出て来ました。
当時、神奈川県令となっていた野村和作(元松下村塾生)のもとへ
持ちこみ、松陰神社へ納められたのが、明治24年(1981年)です。
もう一通は、飯田正伯(門下生)が萩に送って塾生たちが回し読みした
と伝えられていますが、消失しています。
ですから、この留魂録だけが最後の一日に書かれたもので、その数奇な
運命は松陰先生の遺志が時空を超えて伝わったとしか思えないのです。
でも、運命の10月27日に評定所に呼び出されて斬首処刑を言い渡されて
伝馬町牢獄で処刑される正午までに、絶筆とされる書が残されていまし
た。

《松陰歴史館藏》
「此程(これほど)に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)を
けふきく古曾(こそ)嬉(うれ)しかりける」
☆冒頭に「十月廿七日呼び出しの聲を聞きて 矩之」とあります。
”けふきく”の右に点があるのは、松陰先生が字足らずに気付き点を打ったのだろうと
伝えられています。もうひとつは、署名の”矩之”ですが松陰先生の本名は吉田矩方です。
吉田家代々の家名から罪人が出る事を潔しとしない先生は、矩方を矩之に改名して
署名したのではないかと推測しています。
この絶筆にも不思議な事が最近発見されました。2014.1.23東京の井伊美術館がこの
辞世の句を発見したと発表したのです。
安政の大獄で松陰の処刑を命じた大老・井伊直弼(なおすけ)の腹心(長野主膳)の書状
をまとめた巻物に、この辞世の句が貼り付けてありました。と云う事は、この絶筆の
辞世の句も2つあったということですが、これも真筆で冒頭の15文字が後側になって
いて、”く”の横の点もありません。
なによりも不思議なのは、松陰先生が処刑される直前に同じ辞世の句を二首書いている
事と敵方の安政の大獄の鬼と恐れられた実践者が、この一方の辞世の句を持っていたか
ということです。長野主膳という人も立派な国学者であり立場は違っても死ねば皆
平等という日本人の死生観をもっており、学者としての松陰を尊敬していたとも
いわれていますが、当たらずとも遠からずの気がします。
それよりも、2014ー1859で155年目に、また、松陰先生の辞世がでてくることの
不可思議さは、どう解釈すればよいのでしょうか?
ともかく、松陰先生やその当時の人々の考えは、日本をこころから憂い、心配して
いゝ世の中を創ろうとした時代で、それが明治以後続いているのは、事実です。
私達は、この事を忘れることなく松陰先生の事を思い出しながら暮して行くのが
よかろうと思っています。( 留魂録を読んでみよう・・・完 )
《2015.5.21 周南市 東郭》

吉田松陰先生墓(二十一回猛士)萩市