吉田松陰の留魂録を読んでみよう(3) | 周南市 東郭の世界

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萩の松下村塾「講義室」
 
 
 
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留魂録(第三節)
 
 
 
       留 魂 録
 
  身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
 
 
  十月念五日             二十一回猛士
 
 
【原文】は、16章ありまして、今回は第三節です。
 
 
一、吾性激烈怒罵ニ短シ務テ時勢ニ従ヒ人情ニ適スルヲ主トス
  
 
  是ヲ以テ吏ニ対シテ幕府違勅ノ已ムヲ得サルヲ陳シ然ル後
 
  當今的当ノ處置ニ及フ其説常ニ講究スル所ニシテ具ニ對策
 
  ニ載スルカ如シ是ヲ以テ幕吏ト雖甚怒罵スルコト不能直ニ
 
  曰ク汝陳白スル所悉ク的当トモ思ハレズ且卑賎ノ身ニシテ
 
  国家ノ大事ヲ議スルコト不届ナリ余亦深ク抗セズ是ヲ以テ
 
  罪ヲ獲ルハ萬々辞セサル所ナリト云テ已ミヌ幕府ノ三尺布
 
  衣国ヲ憂ルコトヲ許サズ其是非吾曽テ弁争セサルナリ聞ク
 
  薩ノ日下部以三次ハ対吏ノ日當今政治ノ缺失ヲ歴詆シテ如
 
  是ニテハ往先三五年ノ無事モ保シ難ト云テ鞠吏ヲ激怒セシ
 
  メ乃曰是ヲ以死罪ヲ得ルト雖トモ悔サルナリト是吾ノ及サ
 
  ル所ナリ子遠ノ死ヲ以テ吾ニ責ムルモ亦此意ナルベシ唐ノ
 
  段秀実郭曦ニ於テハ彼カ如クノ誠梱朱泚ニ於テハ彼カ如ク
 
  ノ激烈然ラハ則英雄自ラ時措ノ宜シキアリ要内省不疚ニア
 
  リ抑亦人ヲ知リ幾ヲ見ルコトヲ尊フ吾ノ得失當サニ蓋棺ノ
 
  後ヲ待テ議スヘキノミ
 
 
 
【読み下し文】
 
一、吾が性激烈怒罵(どば)に短し、務めて時勢に従ひ、人情に適するを主とす。

 
  是を以て吏に對して幕府違勅(いちょく)の已むを得ざるを陳じ、然る後當今

 
  均當(てきとう)の處置に及ぶ。其の説常に講究する所にして、具(つぶ)さに、

 
  對策に載するが如し。是を以て幕吏と雖も甚だ怒罵すること、能はず、直に曰く、

 
  「汝陳白(ちんぱく)する所悉(ことごとく)的當(てきとう)とも思はれず、

 
  且つ卑賤(ひせん)の身にして国家の大事を議すること不届なり」。余亦深く抗せず、

 
  「是を以て罪を獲るは萬萬(ばんばん)辭せざる所なり」と云ひて已(や)みぬ。

 
  幕府の三尺(さんせき)、布衣(ほい)、國を憂ふることを許さず。其の是非、吾會て

 
  辯争(べんそう)せざるなり。聞く、薩の日下部以三次(くさかべいそうじ)は對吏の

 
  日、當今政治の缺失(けつしつ)を歴詆(れきてい)して、「是くの如くにては往先

 
  五年の無事も保し難し」と云ひて、鞠吏(きくり)を激怒せしめ、乃(すなわち)ち曰く

 
  「是を以て死罪を得ると雖も悔いざるなり」と。是れ吾れの及ばざる所なり。

 
  子遠の死を以て吾れに責むるも、亦此の意なるべし。唐の段秀實(だんゆうじつ)、

 
  郭義(かくぎ)に於ては彼れが如くの誠悃(せいこん)、朱泚(しゅせい)に於ては

 
  彼れが如くの激烈、然らば則ち英雄自ら時措(じそ)の宜しきあり。

 
  要は内に省みて疚(やま)しからざるにあり。抑々(そもそも)亦人を知り幾を見る
 
  ことを尊ぶ。吾れの得失、當に蓋棺(がいかん)の後を待ちて議すべきのみ。

 

【用語解説】・・・《吉田松陰.Comより》
 
 

吾が性激烈駑罵に短し=私の気性は激しく、人から怒り罵られると我慢できない。錠諚

幕府違勅の已むを得ざるを陳じ=安政五年、幕府は勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのは止むを得ないことであると述べ。

当今的当の処置=現在最も相応しい対応策。

対策=「対策一道」。安政五年四月に執筆した、勅諚に云う諸藩主の意見を聴くということに対する、松陰の意見書。  

不届なり=道理や法に背いている。

万万辞せざる所なり=絶対に避けられない。

三尺=法令。昔、三尺の竹簡に法律を刻んだことから。

布衣=庶民。

日下部以三次=一八一四~五八 正しくは伊三次。名は翼、号は九皐。薩摩藩士。幕政改革を指示した勅諚を水戸藩邸に届けたことが発覚して投獄され、安政五年獄中で病死。

欠失を歴詆して=過ちを次々に挙げてそしり。

子遠の死を以て吾れに責むるも=入江杉蔵が私に尊攘の大義に殉ずるよう求めたのも。

段秀実=唐の人。字は成公。徳宋の時、司農卿となる。名将郭子儀の子、晞が父の威光を借りて乱暴したので、秀実が訓戒を与え改心させた。奸臣朱泚が謀反を企てた時、秀実がこれを激しく非難したため殺された。

郭曦=未詳。  誠悃=まごころ。

朱泚=七四二~七八四 唐の武臣。徳宋の時、大尉となる。姚令言が軍を率いて長安を通過する時、軍変起り徳宋は奉天に逃走、令言が朱泚を皇帝となし国号を大秦とする。のち武将に殺された。

時措の宜しきあり=その時々にふさわしい処置がとられた。

内に省みて疚しからざるにあり=反省して良心に恥じるところがない。

機を見る=よい機会を捉える。

蓋棺の後を待ちて議すべきのみ=(人間は死後棺を蓋で覆ってはじめて、その人の業績、価値が定まる、と言われているとおり)私も死後、評価すべきである。


【東郭訳解】私の気性は激しく、人から怒り罵られると我慢できないところがあり、その
 
為に今回は務めて流れに沿って感情を抑えるよう心がけていた。よって吟味役に対しても
 
無勅の日米修好通商条約締結については、止むを得ない事だったと陳述し、然る後の対応
 
策こそが肝要であると論じた。これは意見書の「対策一道」で述べたとおりである。
 
これに対して幕吏も怒ることが出来ず、ただ汝の申す事悉く的を得ているとは思えず、
 
卑賤の身でありながら幕府に意見を述べるのは不届きであるとした。松陰先生は、抗弁せず
 
「これを持って罪にするというのなら、それも仕方がない!」と言って已んだ。
 
幕府は、法律について庶民が論じ国を憂うことを許していない状態であり、それについても
 
議論したことはなかった。
 
聞くところによると、薩摩の日下部以三次は、捕縛された日に幕府の失政を次々に挙げて
 
このような事では往く先5年はもたないだろうと誹り、幕吏を激怒させたが、日下部は
 
「こんなことで死罪にするくらいなら死んでも悔いはない!」と云って死んだが、私の
 
及ばないところである。思遠(入江九一)が尊王攘夷の大儀に殉ずるよう求めたのも
 
このことかも知れない。唐の段就実は晞を真心を持って改心させたが、奸臣朱泚が謀反を
 
企てた時、秀実がこれを激しく非難したため殺された。然らば英雄をいうものは、自らの
 
時と場所に於いて相応しい態度で臨めばいゝことであって、要は自分を省みて疾しい事の
 
ないように生きることである。他人を知り機をみることが重要である。吾の価値は、棺桶の
 
蓋をするまで待った後に議論されるべきであろう。
 
 
                           《2015.4.25 周南市 東郭》