管仲の“衣食足りて礼節を知る”と管鮑の交わりとは? | 周南市 東郭の世界

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管子 牧民第一

 
 

【漢語】

 凡有地牧民者,務在四時,守在倉癛。
  fányŏudemùmínzhĕwùzàisìshíshŏuzàicānglǐn
 
 
【読み下し文】
 凡そ地を有し民を牧する者は務め四時に在り守り倉廩(そうりん)に在り。

 
 
【意味】
 
国土を持ち民を養う者は、四季を通じて食物倉庫を守らなければ ならない。

  
 

【漢語】
  國多财則遠者來,地辟舉則民留處,
   guóduōcáizéyuǎnzhĕláidepìjŭzémínliúchù

 
 
 
【読み下し文】
   国に財多ければ、則ち遠き者来たり、地、辟挙(へききょ)すれば、
     則ち民、留処(りゅうしょ)す。
 
 
【意味】
  国が豊かであれば、遠くより民が来て、自ずと人が留まる。

 
 
 
 
 

【漢語】

  倉廩實則知禮節,衣食足則知榮辱。
   cānglǐnshízézhīlǐjiéyīshízúzézhīróngrŭ

 
 
【読み下し文】
倉廩(そうりん)実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)知る。

 
 
【意味】
  食物倉庫が実入れが、礼節を知り、衣食が足りれば、栄辱を知る。
 
 
 
 
イメージ 1
                         《撮影:東郭/淄博市博物館展示》

 
管子(かんし)は、管仲に仮託して書かれた法家の書物。管仲の著書だと伝えられている。

中文名      管仲
名       管子、夷吾
国 籍       周(国)
民 族       夏族
出生地      上(今安徽省阜阳市
出生日期     公元前723年(戊午年)或前716年(乙丑年
逝世日期    公元前645
    经济学家、政治家、事家、教育家
代表作品    著有《管子》
主要成就    桓公称霸
主 公      桓公

 

管鮑の交わり

管仲は鮑叔との友情を次のように述懐している。
 
「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張り
 
だと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとし
 
た事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事に
 
はうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。私は幾度か仕官して結果
 
を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。私が時節に恵まれ
 
ていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわり
 
しなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時、召忽は殉
 
死したが私は囚われて辱めを受けた。だが鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節
 
義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたから
 
だ。 私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」
 
二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称え
 
管鮑の交わりと呼んだ。
 
二人は斉に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし時の
 
君主襄公は暴虐な君主で、跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺さ
 
れるかわからないため、管仲は公子糾と共にに逃れ、鮑叔と小白も莒に逃れた。その後、
 
襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、君主が不在とな
 
った。斉国内は糾と小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、先に帰
 
国した方が有利な情勢になった。
 
ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようと
 
した。管仲は藪から毒を塗った矢を射て車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具
 
に当たって体に届かず、小白は無事であった(春秋左氏伝などにはこのことは書かれていな
 
い)。この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして車を走らせてその場を急いで離れ、二の矢以
 
降から逃れた。更に小白は自分の死を確認する刺客が再度到来することを危惧して、念のた
 
めに次の宿場で棺桶の用意をさせた。このため管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一
 
行は悠々と斉に帰国した。しかし、既に斉に入っていた小白とその臣下たちが既に国内を纏
 
めており、管仲と公子糾はやむなく再び魯へ退却した。
 
斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく軍を魯に向ける。魯も抗戦
 
したが、斉軍は強く窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、公子糾
 
の始末と管仲および召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管
 
仲は罪人として斉に送られ、召忽は身柄を拘束される前に自決した。しかし、管仲は斉に入
 
ると拘束を解かれる。魯を攻めるにあたり、桓公は糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、
 
鮑叔より桓公に「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高傒の2人で十分です。しかし
 
天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言われていたか
 
らである。《Wikipediaより》
 

中国語では、《Baidu》が次のように紹介しています。

管鲍之交

管仲之所以能相齐成霸,是与鲍叔牙的知才善荐分不开的。管仲晚年曾感动地说:“我与鲍叔牙经商而多取财利,他不认为我贪心;同鲍叔牙谋事,我把事情办糟了,他不认为我愚蠢;我三次从阵地上逃跑,他不认为我胆小怕死;我做官被驱逐,他不认为我不肖;我辅佐公子纠败而被囚忍辱,他不认为我不知羞耻……。生我者父母,知我者鲍子也!”
管仲有位好朋友鲍叔牙,两人友情很深。他们俩一起经商。在经商时赚了钱,管仲总是多分给自己,少分给鲍叔牙。而鲍叔牙对此从不和管仲计较。对此人们背地议论说,管仲贪财,不讲友谊,鲍叔牙知道后就替管仲解释,说管仲不是不讲友谊,只贪图金钱,他这样做,是由于他家贫困,多分给他钱,是我情愿的。管仲三次参加战斗,但三次都从阵上逃跑回来。因此人们讥笑他,说管仲贪生怕死,没有勇敢牺牲的精神,鲍叔牙听到这讥笑后,深知这不符合管仲的实际情况,就向人们解释说,管仲不怕死,因为他家有年迈的母亲,全靠他一人供养,所以他不得不那样做。管仲同鲍叔牙的友谊非常诚挚,他也多次想为鲍叔牙办些好事,不过都没有办成;不但没有办成,反给鲍叔牙造成很多新困难,还不如不办好。因此人们都认为管仲没有办事本领,鲍叔牙却不这样看,他心里明白,自己的朋友管仲是个很有本领的人。事情所以没有办成,只是由于机会没有成熟罢了。在长期交往中,他们两人结下了深情厚谊,管仲多次对人讲过:生我的是父母,知我的是鲍叔牙。

管仲の”管鮑の交わり” は人との信頼関係が世の中で大切であることの実践ですね。
 
後世の孔子は、后来孔子感叹说:“ 管仲相桓公,霸侯,一匡天下,民到于今受其
 
微管仲,吾其被左衽矣。若匹夫匹为谅也,自而莫之知也?”
 
:“桓公九合侯,不以兵,管仲之力也。如其仁,如其仁。”と言っています。
 
管仲の生きた時代は中国の春秋時代で、文面にも魯や斉の国が出て来ます。
 
山東省の済南や淄博はその頃の政治の舞台でありました。車のナンバーにも「魯」
 
の文字が使われているほどです。私もこの辺りには18回行きましたが、
 
この地方の人々は信義を重んじ質実です。
 
管仲や孔子や孟子が出た地方だからか判りませんがこの聖人を尊敬して暮しています。
 
孟子は性善説を唱えたのですが、その孟子をよく勉強したのが、幕末の吉田松陰です。
 
松陰は尊王攘夷を唱えましたが、管仲も尊王攘夷の思想を持っていました。
 
実に面白い繋がりです。関連性があるのかどうかは判りませんが、歴史の面白さを
 
感じます。