「花燃ゆ」第7話が2月15日放映されました。
副題「放たれる寅」は、吉田寅次郎が野山獄から出される迄の獄囚たちの絡みや主人公
「文」の努力を描いています。
視聴率はと申しますと、過去最低の11.6%でした。
どうも、私の感覚と世間の評判には「ズレ」があるのですかねぇ?
まあ、それによって吉田松陰や明治維新の大業が変わるわけではないし、もう一度、歴史の
勉強と思ってブログも書いています。
”本当のところどうだったのか?”、”背景でもっと述べて欲しかったこと?” なんかを
私なりに調べて毎回お送りしている次第です。
本ブログの「長州偉人伝」の最初に”吉田松陰” と取り上げたのもそういう動機付けであった
わけで、「松陰歴史館」の松下村塾授業風景なども動画で紹介しています。
宜しかったら、ご覧いただきたく存じます。
さて、今回の第7話「放たれる寅」は、安政2年(1855年)の話です。前年の10月末に
野山獄へ繋がれまして、一年有余12月15日に出獄しています。
この年(安政2年1月)には、甥の玉木彦助の元服祝いで「士規七則」なるものを贈って
います。東郭ブログでは「神社仏閣歴史探索」の2013.12.20に松下村塾と題して取り上げて
います。世田谷にある松陰神社で吉田松陰の命日10月27日にお参りしたとき、講義室に
この「士規七則」が掲げてありました。一部を東郭ブログから引用致します。

士気七則 《世田谷松下村塾》
「士規七則」
披繙冊子、嘉言如林、躍躍迫人。顧人不讀、即讀不行。苟讀而行之、則雖千萬世不可得盡。
噫復何言。雖然有所知矣、不能不言、人之至情也。古人言諸古、今我言諸今。亦詎傷焉、
作士規七則。
冊子を披繙(ひはん)すれば嘉言(かげん)林の如く、躍々(やくやく)として人に迫る。
顧みるに人読まず、即ち読むとも行わず。
苟(いやしく)も読みてこれを行えば、即ち千万世と雖も盡くすべからず。
噫(ああ)復た何をか言わん。
然りと雖も知るところ有りて言わざる能うざるは、人の至情なり。
古人諸古(しょこ)に言い、今我諸今(しょこん)に言う。
亦(また)詎(なんぞ)傷まん、士規七則をつくる。
1.凡生為人、宜知人所以異於禽獣。蓋人有五倫、而君臣父子為最大。故人之所以為人忠孝為本。
凡(およ)そ生まれて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以(ゆえん)を知るべし。
葢(けだ)し、人に五倫あり、而して君臣父子を最も大なると為す。
故に人の人たる所以(ゆえん)は、忠孝を本と為す。
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さて、野山獄の吉田寅次郎(松陰)は、安政2年(1855年)6月に「福堂策」を書いて
います。テレビドラマ第7話は、主に「福堂策」をめぐっての話と獄囚たちの生活でした。
「人賢愚ありと雖も各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する
所あらん」として、獄中であっても生きる喜びや学ぶ喜び・創作をして生き甲斐を
持つべきだと考え勉強会を始めると獄囚達も共感し、出獄に際しては松陰の人徳に対して
溢れんばかりの惜別を示します。話題の中心「福堂策」の上が下記にあります。
福堂策 上 (野山雑著)全集第二巻 安政二年六月一日(一八五五) 二十六歳
元魏の孝文、罪人を久しく獄に繋ぎ、その困苦に因りて善思を生ぜ染む。」因って云はく、
「智者は囹圄を以て福堂とす」と。此の説遽かに聞けば理あるが如し。
諸生紙上の論、多く左袒する所なり余獄に在ること久し。親しく囚徒の情態を観察するに、
久しく獄に在りて惡述を工む者ありて善思を生ずる者を見ず。然らば滞囚は決して善治に
非ず。故に曰く、「小人閑居して不善を為す」と、誠なるかな。但し是れは獄中教へなき者を
以て云ふのみ。
若し教へある時は何ぞ其れ善思を生ぜざるを憂へんや。
曾て米利幹の獄制を見るに、往昔は一たび獄に入れば、多くはその悪益々甚だしかりしが、
近時は善書ありて教導する故に、獄に入る時は更に転じて善人になると云ふ。
是くの如くにして始めて福堂と謂ふべし。
余是に於て一策を画す。世道に志ある者、幸に熟思せよ。
一、 新に一大牢獄を営し、諸士罪ありて遠島せらるべき者、及び親類始末に逢いて遠島せらる
べき者は、先づ悉く茲に入る。内、志あり學ある者一人を長とす。親類始末のことは
余別に論ありて筆録とす。此の策は只今の有様に就いて云ふのみ。
一、 三年を一限とす。凡そその囚徒、皆出牢を許す。但し罪悪改むることなき者は、更に三年
を滞らす。遂に改心なき者にして後、庶人に降し遠島に棄つ。尤も兇頑甚だしき者は、
三年の限りに至るを待たず、是れを遠島に棄つ。是れ皆獄長の建白を主とし、更に検覈
を加ふ。
一、 長以下、数人の官員を設けざることを得ず。是れ獄長の建白に任ずべし。
総べて獄中の事は長に委任し。長私曲あり、或いは獄中治まらざる時は専ら長を責む。
一、 獄中にては、読書・写字・諸種の学芸等を以て業とす。
一、 番人、獄中の人数多少に応じ、五六名を設けざるを得ず。而して其の怠惰放肆の風を厳禁
し、方正謹飭の者を用ふべし。番人は組の者を用ひ、番人の長は士を用ふべし。
一、 飲食の事は郡夫に命じ、別に日々監司後れ付の類を出し監せしむべし。
獄中銭鈔を貯へ、恣に物を買ふを厳禁し、各人の仕送り銀は番人中一人を定め、是れを
司らしむ。即ち今野山獄の肝煎の如し。
一、 獄中断じて酒を用ふることを許さず。酒は損ありて益なし。
此の不易の論あり、茲に贅せず。
一、 隔日或は両三日隔てて、御徒士目付を回し、月に両三度は御目付の回りもあるべし。
回りの時は獄中の陳ずる所を詳聴すべきは勿論なり。
一、 医者は毎月三四度回すべし。若し急病あれば願出で次第、医をして来診せしむべし。
付人の事、湯水の事、江戸獄中の制に倣ふを可なりとす。
一、 獄中画一の制を作り、板に書して楣に掲ぐべし。
右に論列する所に従って一牢獄を営せば、其の福堂たるも亦大なり。
余幸にして格そとの仁恩に遇ひて、萬死の誅を減ずることを得。
其の身を岸獄に終ふる、固より自ら安んじ自ら分とする所なり。
然れども國恩の大、未だ涓埃を報ずるを得ず。深く忸怩する所なり。
因りて願ふ、若し新獄の長となることを得ば、或は微力を伸部て万一を庶畿すること
を得ん。但し囚中、其の才学余に過ぐる者あらば、余も亦敢て妄りに其の前に居らざるなり。
余野山獄に来たりてより、日々書を読み文を作り、傍ら忠孝節義を以て同囚と相切磋する
ことを得、獄中駸々乎として化に向ふの勢いあるを覚ゆ。是れに因りて知る、
福堂も亦難からざることを。
且つ人賢愚ありと雖も各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所
あらん。是れ亦年来人を閲して実験するところなり。
人物を遺棄せざるの要術、是れより外復たあることなし。当今動もすれば人を遠島に処す。
余精しく在島の容子を聞くに、降して庶人となすよりも甚だし、全く百姓の奴隷となるなり。
堂々たる士人をして此の極に至らしむること、豈に匆々にすべけんや。故に余は先づ獄に
下し、必ず已むことを得ざるに及んで、然る後遠島に処せんと欲す。是れ忠厚の至りなり。
但し放縦は人情の安んずる所にして、厳整は其の厭ふ所なれば、右の如く制を定むる時は
必ず悦ばざる者衆し。然れども、是れに非ざれば福堂の福を成すに足らず。
方今庶政維れ新たに、百弊革めざるななし。独り囚獄の政に於いて、未だ至らざるもの
あるを覚ゆ。故に余故に私に策すること此の如し。然れどども是れ独り士人の獄法を
論ずるのみ。
庶人の獄に至りては更に定論あり。今未だ贅するに暇あらず。
安政乙卯六月朔丙夜、是れを野山獄北第一房に於いて書す。二十一回猛虎松陰在野山獄
《吉田松陰.com》
福堂策というのは、牢獄を福堂に変換しようと提言したものですが、読んでみてその学問の
深さに驚かされます。文中に「曾って米利幹の獄制をみるに・・・」と記述しています。
黒船来航が嘉永6年(1853年)で、これを書いたのが安政2年(1855年)松陰26歳のとき
です。嘉永6年長崎方面へ遊学して回顧録に「稽欧羅巴・米利幹の風教を聞知し、
乃ち五大洲を周遊せんと欲す」と書いていますし、佐久間象山などからも学んでいますので
その頃、獄制をみたのではないかと思います。しかし、当時の日本にあってこのような
着眼をしていた松陰と言う人の先駆性に驚きます。ドラマ中の松陰はよく「絵空事であって
はならない」と云います。松陰の思想は孟子の東洋思想が根付いていますが、学ぶべきは
西欧・アメリカとしています。中国清朝の衰退は決定的であった為でしょうが、「絵空事」
であっては、ならないと松陰が言っているのは反対に「知行合一」でなければならないと
言っているのです。
このドラマで、最初から「学ぶとはなにか?」、「生きるとはなにか?」と硬い事ばかり
問いかけるような部分がありますが、『実践を伴わない学問は絵空事』であります。
松陰は、10歳の時に藩主の前で御前講義したといゝますが、野山獄ごろは、最早、実践を
目指しています。二十一回猛士というのもこの頃付けた号です。
これまで三回猛をしたと云っていましたが、①東北旅行の為、通行手形を発行を待たずに
脱藩した事 ②身分はく奪されたにも拘らず大罪覚悟で藩主に「将及私言」などの意見具申
をしたこと ③黒船密航を企てたことを指しているようです。でも松陰はこれは実践で
あり、「狂」でありました。松陰は、あと18回猛をすると明るく言っていましたが、
言わば、一回ごとの「猛」は命を張った所業ですので、全部成し遂げられる訳ではありま
せん。
それにしても、松陰は獄囚達をいつの間にか”その気にさせる”不思議な魅力があった人です
ねぇ~、これは本当にあったお話です。最初の江戸伝馬町の牢に閉じ込められたときも
そうでした。牢名主や牢役人も松陰のファンになっています。今度の野山獄でも司獄の
福川犀之助もそうです。私は、その情熱や「至誠通天」の心意気が人々に感銘を与えたの
ではないかと思っていますが、花燃ゆ第8話「熱血先生、誕生!」で松陰の最大のファンに
なる久坂玄瑞(東出昌大さん)が登場します。彼は松陰のどんなところに魅かれたんでしょ
うね?
本当は、「文さん」が一緒にいたからなんですが、楽しみですねぇ~

《萩市 松下村塾講義室》
【松陰歴史館の授業風景動画】・・・音量注意
《2015.2.18 周南市 東郭》