
前回、「菅谷たたら高殿」の話でしたが、改めて山陰地方の鉄の歴史の深さを感じます。
特に出雲地方は、日本一の鉄生産地でした。島根県では、明治13年には、8000㌧を超える
鉄を生産しております。(野原建一「たたら製鉄史の研究)
たたら操業の三要素は「砂鉄・炭・土」と言われていますが、その砂鉄を採取すり山や川、
木炭をつくる原木の膨大な面積をおもうと、この出雲地方全体が「たたら製鉄」の為に
機能していたことが判ります。
《2015.1.14 周南市 東郭》

鉄穴流し(かんなながし)と呼ばれる方法で砂鉄を選鉱しました。
”鉄穴(かんな)流しという言葉は、砂鉄をとるため川岸で砂を掘ります。
するとその場所に穴が開き、その穴を鉄の穴と呼び、転じて山の土砂を流して砂鉄を
とる方法を鉄穴流しとよぶようになったといわれています。初め頃は、山頂(峰)に
水を引き、水と一緒に山頂から山を崩して下に流していたと想像されますが、だんだん
大量に土砂を崩す方法が考えられ、井出(水路)を通し、長い柄(え)の内鍬(うちぐわ)
で山を掘り込み、崖状にして上部(じょうぶ)の土砂を崩落させる方法になりました。
鉄穴流し作業は、冬季間の仕事で農民にはまたとない副業となりました。
一方農民はよい鉱脈(こうみゃく)を探して秋の彼岸(ひがん)からこの鉄穴流しを始める
までに、水を引き、準備万端整えておくことになります。
作業期間は下流の農民の農耕との関係で秋の彼岸から春の彼岸までとされていました。
この一期間で砂鉄が100トン採取できれば上々でありました。”《市報うんなん》

鉄穴流し砂鉄選鉱場跡
菅谷たたらの鉄穴流しは、菅谷川を利用して行ないました。
ところが、砂鉄1㌧を採取するのに必要な200㌧の土砂を水と共に流さねばなりません。
砂鉄以外の199㌧は、川へ流したようです。現在10㌧ダンプで20台分の土砂が流れる
と、菅谷川だけでなく、出雲各地の支流や本流の斐伊川などはその堆積に依って、
天井川になったそうです。そして、川が氾濫して田畑の大きな被害を与えたようで、
松江藩もその対策に苦労しています。とはいえ、斐伊川への鉄穴流しを禁止するくらい
で、土砂の有効に廃棄する方策を確立するまでには至らなかったと思います。
現在の宍道湖が浅いのは、この影響もあるのではないでしょうか?

鉄池跡
鉄池は、たたらで出来あがった鉧を炉から此処へ運び冷ます設備です。
いま、復元中ですので、鉄塊の移動方法などが再現出来ればいゝのですが。

鉧立場

大銅場(おおどうば)

大銅場(おおどうば)
大胴場は、鉄池から冷却されたケラ(約4トン)を坂?を利用して運びこみ、
砕く(鍛割り)作業場でした。その設備が下の写真です。

《写真:鉄の歴史村所蔵》
水車の動力を利用して、500貫の分銅で鉧を40貫の塊りにするそうです。

大銅場(おおどうば)
この建物も杮葺ですね。苔生していゝ雰囲気です。

送風水車小屋と書いてあります。

水車の役割
”大銅場の水車を回した水は集落の中央を通る道に掘られていた地下の水路に流れ込み、
さらに内洗場を通って砂鉄の精洗と小銅場の水車にも使われたのち川へ落とされました。
水車の動力は鍛割り作業と2台の輸をピストン操作させて炉に空気を送りこむ送風作業に
利用されました。”《鉄の歴史村HP》
いや、驚きました。いつからか判りませんが、動力を使用していたのですね!
これは、もうシステム的な工場になっています。
米蔵もあったので米も撞いていたのでは、ないでしょうか?
番子さんが大汗を流して蹈鞴を踏む絵を見たので、吸入空気を確保するのが大変だろうと
バッファータンクの要望も書いてしまい失礼しました。
そういえば、蹈鞴に10インチくらいのLパイプが入っていましたが、あれがそうなの
でしょうか?
これは、是非もう一度行って、朝日さんたちにお話しを聞かねばなりません。
☆本日もお立ち寄り有難うございます。
次回は、菅谷たたらに祀ってある金屋子神さま書こうと思います。