四国霊場遍路の旅を紹介しています。
今回は、四国霊場第55番札所南光坊(なんこうぼう)で御座居ます。
御詠歌は、「このところ三島に夢のさめぬれば別宮とても同じ垂迹」です。
三島は、大三島の大山祇神社のこと、南光坊はそこの別宮の別当寺だったのです。
それで、ちかごろ三島に夢がさめてみれば、南光坊とても同じ垂迹(すいじゃく)と詠んで
いますが、本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、”仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想
の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本
の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。”とされています。
ですから、弘法大師は神仏習合の時代にあって三島と南光坊は、同じ権現さまですよ!と
詠んで修法されました。
《2014.8.31 周南市 東郭》

第55番札所 南光坊は、愛媛県今治市別宮町3丁目1番地にございます。

山門

山門
山門は、増長天、広目天、多聞天、持国天の四天王が配置されています。

本堂の偉容

本堂
594年(推古天皇御代二年)勅により、伊予の国一宮で大三島に鎮座する大山祇神社の
「供僧寺」のうちの一坊として南光坊が造立された。
のち越智玉澄公は風雨の時祭祀が欠けることを憂い、文武天皇の勅を奉じて大宝3年
(703年)、当地(伊予国越智郡日吉村)に勧請し、「日本総鎮守三島の地御前」と称して
奉祀した。
大山祇神社には24の僧坊があったが、南光坊を含む8坊(中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵
坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊・南光坊)が別宮の別当寺としてともに遷されたという。
なおこれら8坊の移転を正治年間(1199年~1201年)とする説もある。
弘法大師は四国巡錫の時別宮に参拝し、坊で御法楽をあげられて四国霊場第五十五番札所と
定められた。《Wikipediaより》

本堂
別宮山 金剛院光明寺 南光坊(べっくさん こんごういんこうみょうじ なんこうぼう)
宗派 真言宗醍醐派
本尊 大通智勝如来
創建 大宝3年(702年)
開基 行基菩薩
住所 愛媛県今治市別宮町
ご真言 ”おん あびらうんけん ばざらだどばん (なむ だいつうちしょうぶつ)”
※大通智勝如来は、『法華経』の化城喩品第七に説かれている仏で、大山祇大明神の本地
とされて河野水軍に信仰された。

納経帳

本堂

大師堂

大師堂

大師堂
南光坊と弘法大師様の関係を公式HPでみるとつぎのように書かれています。
大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。
これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されている
が、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して
奉祭した。
さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた、とあります。
「天正の兵火」でも、この南光坊だけは火災を免れ、「太平洋戦争の焼夷弾爆撃」でも屋根を
滑って火災にならなかったとか、不思議な運の強さがあります。
南光坊の事情を知ると、神社と別当寺の関係や弘法大師様のかかわられ方、神仏習合と分離の
歴史などがわかります。

大師堂

筆塚
本日もお立ち寄り有難うございました。
次回は、第56番札所泰山寺(たいざんじ)でございます。