沖縄平和祈念公園(去る沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意
を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和の享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久
平和を祈念する。)、屏風状の刻銘碑は118基1220面24万名余が刻銘してある。
この1945年ほど、日本人が死んだ年はあるまい。8月6日の広島へ原爆投下、8月9日は、長崎へ
の原爆投下で一時に数十万人の命が失われた、隣りの県である山口県へ多くの原爆被災者が、
逃げてきたことを聞いた。
当時、山口県に広島第一陸軍病院柳井分院、同櫛ヶ浜分院、山口陸軍病院があったが櫛ヶ浜分院
というのは熊毛郡花岡町(現下松市花岡)にあり、どの列車も被災民が満載状態であったという(岩徳
線花岡駅)。
この負傷者・被爆者の救助は、大勢のこともあって付近在住の軍属や医療関係者が手伝いに行った
そうです。汽車の被災者の姿は、みんな焼けただれ衣服はボロボロで、悲惨そのものであったそう
である。そして、毎日、死者の数は増え続け、結局そのときは、無縁仏として埋葬されたようです。
でも、日本の場合は決してそのまゝ放置しては、いないだろうと思います。
それは、その当時の広島の警察が出している避難文書を見れば判ります。
大避難実施方法
1 、大避難ハ爆弾ノ被害又ハ小地域ノ火災等ニ依リ直チニ実施スルコトナク火災発生ノ地域大ニシテ而モ火勢強
烈ニシテ到底防火ニ人事及バザルトキニ限リ実施スルコト
2 、大避難ノ開始ハ市長又ハ警察署長ノ別命ナクシテ各自ノ状況判断ニ依リ実施スルコト
3 、避難先二至ル順路ハ各自随意選定ノコト
4 、避難ニ当リ必ズシモ一定ノ場所ニ集結及団体行動ヲ採ルノ要ナキモ相互扶助ノ精神ニ悖ルコトナキヤウ行動
スルコト
5 、指定避難先以外ニ縁故ヲ有スル者ハ一応指定町村ニ避難シ状況ニ依リ縁故先ニ落付クコト
6 、指定避難先ニ至リタルトキハ町村役場に連絡ノ上町村長ノ指揮ヲ受クルコト
7 、避難ノ受入ハ原則トシテ各自ノ名票ニ依ル従テ常時名票ヲ附シ置クコト
8 、市民ハ一人残ラズ各自ノ指定避難先ノ郡町村名、位置、方角、里程、順路等ヲ平時ヨリ充分承知シ置クコト
9 、指定避難先町村ハ左記一覧表ノ通リ
現在においても、避難するとき、これくらいの事を実施すれば、行方不明者なんかも減少し、氏名も
必ず確認できるはずだからと思うからである。
(どうやら、東日本大震災のあと、似たようなものが、出て参り始めました。)
次に、2次被曝の懸念について聞いた話だが、実際にそれで原爆症になった軍医もいたようである。
勿論、原爆症は日本人が初めて経験するものであり、医療が確立されていた時代ではないし、
終戦で従来の体制がなくなったのであるから、とりあげる部署もなかったと思われる。
救護を手伝った伯母にしても96歳で元気に生きているので、櫛ヶ浜分院ではなかったと信じる以外
に仕方のないことである。しかしながら原爆症認定については、多くの訴訟をおこして日本人同士が
争っているようなことは止めて欲しい。
なぜなら、米軍が日本に落とした原爆で被爆国の日本人同士がどうして争わなければならないの
でしょうかか?、こんな構図はあってはなりません。
沖縄の地上戦や広島・長崎の原爆、東日本大震災で心ならずも一時に亡くなった数十万の人たちは、
みんな人間としての尊厳があり、それを理不尽にも奪うようなことは、絶対にしてはなりませんし、
絶対に避けるべきであります。
天災はいざ知らず、世界には戦争したり内乱を起こしたりして、未だに多くの犠牲者が出ています。
人間の考えというのは、この点においてちっとも進歩がないというのは、どうなんでしょうね。
ともかく、日本においては、恒久的な平和を維持し続けて、世界に対して発信していく以外に、
ないと思っています。

平和祈念公園へのHPへリンク
沖縄平和記念公園の動画(写真)です。よろしかったらどうぞ。

これらの、石の屏風は全てのお亡くなりになった人の名前が刻んであります。