四国遍路9 | 周南市 東郭の世界

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四国遍路の旅をしています。
 
84番札所南面山千光院屋島寺です。
 
住所は香川県高松市屋島東町屋島峯1808番地。
 
伝では、天平勝宝6年に開創(鑑真和上)とある。
 
西暦754年のことである。
 
その前年の753年、鑑真和上は、唐から鹿児島に
 
ほぼ漂着状態でたどり着いた模様である。
 
鑑真和上は西暦753年12月26日大宰府観世音寺イメージ 2
 
横の戒壇院で日本で初めての授戒をおこなった。
 
それから、この屋島の沖で山頂の瑞光をみて
 
屋島北嶺にのぼり持ってきた普賢菩薩像を安置し
 
堂を建てた。
 
こののち、鑑真和上は754年1月に平城京に到着
 
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し、聖武天皇の大歓待をうけ日本仏教の
 
礎となられたお人である。
 
この時代の日本仏教には、戒律を授け
 
る資格がある僧はいなかった。
 
鑑真和上は、10年5回の渡海失敗の
 
あと、ようやく日本へ辿り着かれた。
 
この当時、中国と日本の間の海を渡ることは、死を覚悟する大事業である。
 
鑑真和上は、唐代最高の僧で4万人以上の人に授戒をおこなった。
 
唐の玄宗皇帝も鑑真和上の日本渡海は思いとどまるよう説得したという。
 
そして、5回渡海の失敗も鑑真和上の人材流出を惜しむ弟子たちの仕業ともされている。
 
それほど、当時の唐の鑑真和上に対する期待は大きかったのであろう。
 
日本へ到着し帰化僧となった鑑真和上は、ときの天皇たちの擁護をうけ唐招提寺を創建したり
 
するが、戒律というルールを日本に定着させた功績者である。
 
彼の活躍はわずか10年で終わった、763年唐招提寺で入寂されたのである。
 
ここまで、記して国際交流を標榜する私としては、大いに感動させらrた。
 
唐の玄宗皇帝と日本の聖武天皇は将にその時代の両国のトップであり、死を掛けてまで
 
実践する鑑真上人や日本仏教界は仲立ちをしたということではないか。
 
ここに、国際交流の原点をみることができるのではないか・・・、と文化の偉大さを見ました。
 
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弘法大師は、815年嵯峨天皇の勅願を
 
うけてここを訪れ十一面千手観音を彫像
 
し、御本尊として祀ったと伝えられる。
 
よって、屋島寺中興開山の祖として
 
崇められ現在まで発展してきました。
 
 
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屋島寺の本堂です。国の指定重要文化財です。
 
この本堂のもともとは鎌倉時代に建てられたということですが元和4年1618年竜厳上人により
 
再築され、また昭和の時代にも大解体修理がおこなわれていると申します。
 
しかしながら、鎌倉時代のものは、極力残しながらの修理ということで、現在もその時代を
 
感じさせる風格を備えているとのことであります。
 
もうひとつ屋島寺は源平合戦の舞台となった処にあり、深い因縁の地でもあります。
 
次回は、その時の屋島寺を紹介したいと思います。
 
やしまじは84番札所で84は“やし”と読むので覚えやすいでしょう(笑)