資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。

 

 三重県津市美杉町上多気にある、北畠神社(きたばたけじんじゃ)です。

 





 北畠神社は、室町時代を中心として伊勢国司として隆盛を誇った北畠氏をお祀りする神社です。

 

 御祭神は、

 北畠顕能(きたばたけあきよし)

 北畠親房(きたばたけちかふさ)

 北畠顕家(きたばたけあきいえ)

をお祀りされています。

 

  北畠顕能は、南北朝時代の公卿・武将で、伊勢北畠氏の祖。霧山城を築き、父子兄弟で南朝護持に尽力しました。

 

  北畠親房は、南北朝時代の公卿で、神皇正統記の著者でもあります。

 

  北畠顕家は、南北朝時代の公家・武将で、建武の新政を補佐した北畠親房の子です。

 



  神社に隣接する(境内にある)北畠氏館跡庭園は、枯山水と池泉回遊式を組み合わせた室町期の名園で、日本三大武家庭園として知られています。

  また神社の裏山からは、当時の山城であった霧山城跡に登ることができます。

 




 絵馬には、拝殿正面に飾られている魔除け天狗が描かれています。

 


 天狗は、修験道(しゅげんどう)の象徴的な姿と考えられています。修験道とは、山に籠って厳しい修行を行う、忍者とお坊さんの間のような存在で、様々な情報を戦国大名などに提供し、戦略を立てる際に協力していたと言われています。

 資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。

 

 神奈川県横浜市南区弘明寺町にある、弘明寺 (ぐみょうじ)です。

 





 奈良時代に創建された、横浜最古の寺として知られています。

 今から1300年ほど前の721年にインドの僧   善無畏(ぜんむい)三蔵法師が渡来、霊域を感得し七つの石を据え決壊したのが始まりとされています。

 

 その後731年に河内和泉の国の僧 行基が、流行した悪病の天下泰平のため、この地に草庵をつくり祈願とともに仏像を彫ったと伝えられています。

 


 ご本尊は、国の重要文化財指定を受けている十一面観世音菩薩立像(観音様)です。

 


 絵馬は、大根が描かれた絵馬です。





 境内ある聖天堂には、 聖天様(歓喜天)が祀られています。

 弘仁9年(818年)、弘法大師が回国の際、この地に不思議な力を感じて、聖天(大聖歓喜天)を彫り安置し、一千座の護摩を焚いて庶民の幸福を祈願しました。

 

 また、大根は清浄、淡白な味わいのある食物としてすべての人に好まれ、しかも体内の毒素を中和して消化を助けるはたらきがあるところから、聖天様の「おはたらき」をあらわすものとして尊ばれ、聖天様のご供養に欠かせないお供物とされています。

風蘭(ふうらん)

 大きな羽の下に集まった小さな鶴たちの姿が、夏風にそよぐ、風蘭の白い花に似ているような…。

 

【狂歌】

嶋原の戻りは 風蘭ふらふらと まだ忘られぬ 袖の移り香

 

〈注〉

嶋原…京都の遊里の名前。

風蘭…ラン科の植物で樹木の上に着生する事が多い。

 

大きな鶴のおなかの左右に二羽づつ小鶴がつながっています。












 

 資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。

 

  岐阜県高山市城山にある、日枝神社(ひえじんじゃ)です。




 山の神である大山咋神(おおやまくいのかみ)をお祀りされています。

 「大山」は日枝(比叡)山を意味し、「咋」は主の意味と考えられており、山の神・方除の神・殖産興業にご神徳があるといわれています。

 

 大山咋神と10の神様をお祀りする日枝神社。

 時の三仏寺城主 飛騨守平時輔朝臣が狩りの最中、片野山中に奇瑞のことがあり、1141年(永知元年)に日吉山王(元 日吉大社)を勧進したのが始まりと伝わります。

 その後、飛騨を初めて平定した金森長近公により現在の場所に奉還され、高山城の鎮護神として守護されました。

 

 高山が天領となってからも、歴代の代官、郡代から尊崇が篤く、高山市南半分の氏神として今なお市民の崇敬を集めています。

 

 880年を超える由緒を誇る古社は、木々が生い茂り、爽やかで自然のパワーを感じます。

 

 飛騨高山を有名にした春と秋の高山祭。

 重要無形民俗文化財や、ユネスコ世界遺産にも登録されたこの有名な祭を一目見ようと、祭の時期には大変な人出となります。

 


 絵馬は、春の高山祭を描いた屋台絵馬です。

 






 春の高山祭は毎年4月14日、15日に開催されます。旧高山城下町南半分の氏神様である飛騨山王宮日枝神社の例祭で、正式には山王祭(さんのうまつり)です。

 


 山王祭の特色の1つは12もの屋台(やたい)と呼ばれる豪華な山車。祭の舞台となる安川通りの南側・上町に登場し、うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統行事も繰り広げられます。

 資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。

 

 東京都文京区湯島にある、妻恋神社(つまこいじんじゃ)です。

 




 江戸時代より伝わる縁起には、

 「その昔、日本武尊が東征の折、この地へ来て倉稲魂命(稲荷神)を祀ったことが起源であるとする。

 また、日本武尊が三浦半島から房総へ渡る際、大暴風雨に遭い、妃の弟橘媛命が身を海に投げて海神を鎮め、一行を救ったことから、妃を船魂神(海神)として当社に祀ったという。

 江戸時代、当社は正一位妻恋稲荷大明神と呼ばれ、多くの参詣人を集めた。また、関東近郊のひとびとの求めに応じて各地に稲荷社を分霊したり、「野狐退散」の祈祷などをおこなったりした。」とあります。

 


 絵馬は、「吾妻はや」と名付けられた授与品です。

 

(妻恋神社の話)

 日本武尊は、「古事記」や「日本書紀」に登場しています。

 父王である景行天皇より命ぜられ、体格もよく武力に優れていた日本武尊は、日本(まだ日本とは呼んでいなかったが)の全国統一を目指して、西や東を平定していきました。

 


 東方十二道の荒ぶる神や賊の平定のため東へと旅だち、東京湾を走水の渡り(現横須賀市)から千葉に向けて船で渡る時、途中暴風雨に遭い、船はもてあそばれ沈みそうになりました。

 


  同行の妃・弟橘媛命が「夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と言って、「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」(焼津で自分を守ってくれた尊への思いが込められている)と歌を詠んで海に身を投じました。

 

 海は鎮まり、尊は房総に上陸ができ、東国を平定し、大いに勲功をあげることができました。

 


 帰路、上総の国碓日嶺に登り東南の方を望み「吾妻者耶・・・・・」と恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号としました。

 

  当神社はその時の行宮(野営陣地)の跡と言われています。

 

「あづまはや」から関東のことを「あづま・あずま」と言われるようになったとも。