座頭市とおでんとおうち晩ご飯 | 杜氏屋 Some like it hot

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地酒Bar・杜氏屋と「ちいさな酒蔵33の物語」人文書院・「純米主義」小学館 の著者・中野恵利の最新情報をお届けします。
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座頭市とおでんとおうち晩ご飯。

テレビで「座頭市  二段斬り」を見てたら、市さんが「おでん」と染め抜かれた暖簾をくぐり、お出汁で煮込んだおでんにカラシをつけて食べるというシーンが (・・?)
あれ……? この時代のおでんってこのスタイル?
と、疑問、疑問、疑問。。。


で、調べてみました、おでんのルーツ 📚 📚 📖

おでんのルーツは、拍子木型に切った豆腐に竹串を打って焼いた「田楽」で、語源は女房言葉と言われています。
女房言葉とは、宮中に仕える女性が使用した隠語で、田楽に「お」をつけて「楽」を省略して「おでん」となったのだとか。

「田楽」とは元来、笛や太鼓のリズムに合わせ舞った田植え時の豊穣祈願の楽舞のこと。
拍子木型に切った豆腐に串を打って焼く、その形が田楽舞に似ていることから田楽の名がつけられたとされています。
田楽は平安時代から伝わる芸能ですが、宝暦年間 (1751〜1764) の川柳として「田楽は  昔は目で見  今は喰い」というものがあり、この頃、「見る田楽」が「食べる田楽」へと変化したことが窺えます。

「豆腐田楽」は、室町時代に大流行し、豆腐だけではなく、蒟蒻や里芋なども材料とするようになり、進化を続けながら江戸時代にはファストフードとして庶民に愛され、やがて煮込みおでんへと変化していきます。

さてさて、今日の本題です。
おでんはいつから煮込まれるようになったのでしょう?

◆醤油がいっぱい造られるようになったから説
利根川水運の発達と、江戸の人口増加をきっかけに、江戸時代後期は、近郊の銚子や野田 (いずれも千葉) で醤油の醸造が盛んになり、醤油味の煮込みおでんが生まれたという説があります。

ですが、一方で。。。

◆江戸時代に煮込みおでんなんてナイ説
多種類の材料を、調味した出汁で煮込む「煮込みおでん」。
千葉大学 名誉教授・松下幸子氏は、おでんに関する資料を精査する限り、江戸時代にこのスタイルの煮込みおでんがあったとする確証は得られないと自論を展開させています。
書物に「煮込みおでん」とある場合も、串に刺した蒟蒻や里芋を湯で煮て、みそだれを塗ったものであり、「焼きおでん(豆腐田楽)」に対しての「煮込みおでん」ということに他ならないと。
おでん屋が登場する歌舞伎の「四千両小判梅葉」も、おでんは蒟蒻や里芋で、「おでん燗酒、甘いと辛い」の呼び声は、甘い・辛いを選べる2種類の味噌タレのことだと考察しています。
また、江戸時代の川柳「どぶろくの 尻をおでんが あっためる」も、蒟蒻などの入っている湯鍋に徳利を浸けてお燗をしたのだろうと。

1887年(明治20)に創業したおでん専門店「呑喜」(東京・本郷)の創業者は、汁気の少ない当時のおでんをたっぷりの調味出汁で煮込んで売り出し、これが東京帝国大学 (現 東京大学) の学生に大いにウケたそうです。

松下幸子先生によると、おでんは、明治期に汁気が多いおでんに進化し、それが大正期に関西に伝えられた。東京の料理人によって大阪に持ち込まれた煮込みおでんは、味噌タレのおでん(田楽)と区別して「関東煮」(かんとだき)と呼ばれ、さらなる改良が重ねられたのだと。
この改良おでんは、1923年(大正12)の関東大震災のときに、炊出しメニューとして関西の料理人がふるまったとされています。

◆座頭市の時代背景
子母澤寛の「座頭市」は、その時代背景を天保・弘化・嘉永 (1831〜1854) に定めていると思われます。
ってことは、市さんが当世風なおでんを食べるシーンは、時代考察に欠けていたと言わざるを得ないってことに。。。

ここまで調べたら、すっかり自己洗脳成立で…
おうち晩ご飯は「焼き田楽」となりました🤣
いずれにしても、食の歴史は面白い!

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