浮世の暁 -9ページ目

浮世の暁

リアクションモードで生きる

以前も似たようなことを書きましたが、


マネゲ本などにある 「すべては幻想である」 というのは留保というか、


脇に置いておいた方がいいなあと思います。



マネゲ本を読んでから2年近くになりますが、「すべて幻想なんだ」 と自然に思える状態にはなっていない。


思いなど心の動きが幻想というのは納得していますが、物質的なものまで幻想とは思えない。


ここまで時間がかかっても腑に落ちないことは、無理に信じなくていいやと思います。



究極的にはすべて幻想、例えば臨終に際して、人生は幻想だった、夢だったと悟るらしいことはわかります。



でも、例えば日常生活で地球が丸いことをいちいち意識することはないですよね。。


「このグラウンドは平面に見えるけど、本当は地球は丸いんだよなあ」 などと考える人はいないでしょう。


それと似た感じで、「これは幻想だ、これは幻想だ」 と言い聞かせるようなことはしばらく前にやめました。


(いつまでも言い聞かせるということは、本心では幻想だと思っていないからということでもあります。)



ですので、プロセスの 「これは幻想だ。私の意識の創造物だ」「この創造物から力を取り戻す」


という部分はもう不要となりますね。





この世界が幻想である、自分の意識の産物であるといったことは脇に置いて、


この世界を現実のものと認識したうえで、先に進みたいと思います。


夢の世界ではその夢を現実と認識しているようなものです。



釈迦の話(後代の創作?)だったか忘れましたが、


「悟りを開くことにより精神的苦痛は消えるが、肉体的苦痛が消えるわけではない」 とのこと。


ほんとその通りだと思います。

スピリチュアルというのが1つの産業と化している気がします。


というか、完全に産業化してますね。


ここまで到達したら卒業、というのがない。


そのままでいいんですよ、と言っても、なんだか実感がない。


→メソッドを繰り返す。新刊が出たら購入する。何度もセミナーに行く。


それが良いとか悪いとかいったことではなく、




自分自身のこれまでを振り返ってみても、


一時的に気分がよくなったり、なんとなく充実感を抱いたりで終わってる。


100%の確信を持っているつもりではあるが、


どこか 「教科書に書いてあるんだから、これが正しい」 と言っているのと同じような気がしなくもない。





どうも、


カギとなるのが、


・各種メソッドはアメリカなど外国でできあがったものである


・私は日本生まれの日本育ちの日本人である



といった点にあるのではないかと。





成功哲学とかにも言えることだと思いますが、


日本人の気質に完全には合わないというか (合う人と合わない人が必ず存在する)、


日本人には日本人に合ったメソッドがあるのではないか。





少なくても外国産のメソッドを日本語訳してそのまま適用しても、


どこかで合わないところが間違いなくあるのだろうという気がします。




スピリチュアルの話で言えば、


エゴ(理性)への対応、エゴ(理性)との関係がポイントとなるわけですが、


相手は 「気難しい」ことで有名な(?)、日本人エゴ、日本人理性です…。





欧米人は、日本人の気質をなかなか理解できないと言います。

(少なくとも気質は明らかに違います)


その欧米人が創り上げたメソッドが、そのまま日本人に適用できるものかなあと…。


いくら 「人類に普遍的な」 メソッドと宣伝されていても…。




表面的な感謝とか勤労といったことではなく、


数十年の人生をかけて形成されてきた

(場合によっては何百年・何千年とかけて遺伝的に形成された)


エゴ(理性)そのものが相手ですからね。。。






スピリチュアル産業を批判するのが目的ではなく (そういう立場ではないです)、


やるからには実りを得たい。産業の消費者で終わるのではなく…。


そう思っている次第です。




理論上はとりあえずわかったけど、後は実践・体感、という感じです。


で、その実践・体感の部分で、「このやり方ではどうしても行き詰まるなあ」 となり、

(いわゆる俗世にまみれて生きようとすると そうなる)


ジャンルの違う本などを読む中で、


とりあえず出てきた仮説が 「日本人気質が~~~」 というものです。









早ければ今月中、遅くても年内にはそれなりにまとまった話を書けるかなあと思います。

(それまではぼちぼちと更新することもあるかもしれません)

快も不快も同じこと。


人生で起こることは、何であれ 「それもまたよし」。




何が起ころうと、自己の本質はそれをただ観察する意識である。





そういったことが、ここ最近になってまた一段とわかってきました。