織田信長の煙硝壺とドブロクの壺 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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 梅雨入りを目の前にして,火薬のことを少し調べている。長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破った日が、新暦の6月29日だったからだ。長篠の戦いは、長篠城の救援に駆けつけた織田・徳川連合軍約38,000人が武田軍15,000人と激突した野外決戦である。この戦いで武田軍は,鉄砲を大量に投入した織田・徳川連合軍の火力の前に大敗北を喫した。

 

長篠合戦図屏風に描かれた猛烈射撃中の徳川軍
 
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猛烈射撃中の相馬中村藩古式砲術の皆さん
 

当時の新兵器だった火縄銃は,砂状の黒色火薬を銃口から銃身に流し込んで射撃した。その黒色火薬は,湿ってしまうと火が付かない。いくら大量の鉄砲を持っていたとしても,火薬が湿ってしまったら,鉄砲はただの屑鉄と同じだ。織田信長は,梅雨時に大量の火薬を長距離輸送し,それが湿らぬよう保管していたことに,私は驚いてしまう。織田家の火薬の輸送方法について,オショウサンに聞いてみたら壺だろうと言う。皮で包んだ煙硝壺を見たことがあるし,時代考証家の名和先生も同じことを言っていたと教えてくれた。おそらく織田家は,黒色火薬を入れた煙硝壺を桐の箱に入れ,それを皮で覆って馬に載せて輸送したに違いない。

 

金山城伊達・相馬鉄砲館所蔵の煙硝壺
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宮城県丸森町にある火縄銃に特化した私設博物館『金山城伊達・相馬鉄砲館』では,相馬中村藩が幕府への献上のために用いた煙硝壺を展示している。上の写真が,その幕府献上用の煙硝壺で,壺の高さ 約45 センチ,縦横はそれぞれ約 22 センチの案外大きいものである。五貫目( 20 キロ) 入りの壺ということで,普通の壺と比べて口が大きく作られている。通常,焼き物の底には釉薬を塗らないものだが,この壺は,地上からの湿気を防ぐため底にも釉薬がかけられている。これは幕府献上用の壺だから上等であるが,通常の煙硝壺ならもっと雑っかけなものだったのかもしれない。

  煙硝壺の口     
金山城伊達・相馬鉄砲館所蔵
煙硝壺の底
金山城伊達・相馬鉄砲館所蔵
 
 

 この煙硝壺は,最近まで福島県相馬市の一般家庭で傘立てとして使用されていた。奥三河に行けば,どこかの旧家に織田信長の煙硝壺が眠っているかもしれない。そんなものが出て来たら,私が高値で買い取ろう。以前,ある骨董商がドブロク作りに使っていた壺を煙硝壺と偽って私の所へ持ち込んできたことがあった。骨董商には,充分注意した方がよかろう。