徳川御三家の一つ,尾張藩も鉄砲好きな藩だった。世子が学ぶとされる御流儀鉄砲は,稲富流であるが、藩公認の砲術流派は30を超え,公認以外もふくめれば全部で58流があったという。 (占部日出夫著 日本の砲術流派)
名古屋城天守閣
歴代藩主の中でも二代目の光友公は,武芸や茶道、唐楽、書など諸芸に優れた殿様だった。剣術は柳生新陰流第6世を継承したほどの腕前で,しかも鉄砲の名手でもあった。光友公は銃猟を好み,鹿狩りには小筒(口径13ミリ程度)を用いて、必ず急所を狙い撃ちしてシカを一歩も歩かせずにその場に倒したといわれるほどの射撃の腕を持っていた。
稲留流仕様の鉄砲
口径1.6センチ 全長124.5センチ 銃身長 88.5センチ
銘 巻張 三州住清久 元和三年八月 (1617年)
この殿様は,多くの名銃を秘蔵し,その一つ一つに名前がつけられていた。例えば,「夜の扇」という鉄砲は,30間先(約54メートル)に扇の的を立て,夜間に確とは見えぬその扇を射抜いたことから名づけられた。「居鳥・掛鳥」と名付けられた二丁の鉄砲は,2羽のガンを,1羽は飛び上がる前に,もう1羽は飛び上がったところを続けざまに命中させたいわくつきの鉄砲である。「草切猪」は,草越しに猪を射止めた鉄砲。「大松鴻」は,松の大木の天辺に留まっていたコウノトリを射止めた鉄砲である。
こんな殿様だったから,藩士に多大な影響を与え,尾張藩では砲術が隆盛することになったのであろう。現代でも社長がゴルフ好きだと,その会社にはゴルフ好きな社員がおおくなるものだ。昔も今もトップの趣味や好みは,社員に大きな影響を与える。トップに立つ者は,それを肝に銘じなければならない。