長篠城の200丁の火縄銃 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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  武田勝頼は,西暦1575年の新暦5月20日に1万5000の兵で長篠城を包囲した。長篠城を本格的に攻撃し始めたのは新暦6月19日からである。

 長篠城を守備したのは徳川方の武将奥平貞昌で,その兵力はわずか500でしかなかった。武田方は,城方の三十倍の兵で長篠城をおよそ10日間攻め立てたが,落城させることはできなかった。長篠城は,豊川と宇連川の合流する三角形部分を城とし,その三辺のうち二辺は断崖である。長篠城は,その正面だけに守備兵力を集中できる要害堅固な城なのである。

長篠城 (旗があるところが本丸)

長篠城縄張り図

 

 

 

長篠城の空堀

 

 さらには,長篠城には当時の新兵器である火縄銃が200挺も備えられていた。鉄砲が十分配備された要害堅固な城を力攻めで落とすのは,難しい。火縄銃は,射撃後の弾込めに時間がかかるが,城などの防御施設に拠った時は,驚くほどの力を発揮する。雑賀衆との鉄砲戦で辛酸をなめた織田信長は,それをよく知っていた。信長は,長篠城の堅固さと主将の奥平貞昌の能力を勘案し,貴重な200挺の火縄銃を長篠城に備えつけたのだろう。

 火縄銃は当時の最新兵器であり非常に高価なものであった。長篠が落城して,これが敵の手に渡った場合の損害は計り知れない。織田信長は,必ず長篠城に救援に駆けつけ,武田勢を打ち破るとの必勝の信念に燃えていたに違いない。その証明が,長篠城に備え付けられた200丁の火縄銃なのである。