天正17年(1589)の鉄砲装備 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

火縄銃を切り口として
日本人を考えるブログ
です。

        

 

  岩手県大船渡市から石巻市にかけての三陸沿岸と北上山地及び仙台平野北部に勢威を張った葛西氏は,その総石高は,十数万石に過ぎなかったが,財政力の豊かな戦国大名だった。

 当時,伊達氏と親交を結んでいた葛西氏は,天正17年(1589)の伊達氏と葦名氏が争った摺上原の戦いに,伊達氏を応援すべく鉄砲衆200を派遣したとの記録がある。親交大名への軍事支援として,これだけの鉄砲衆を送れるということは,葛西氏全体ではその倍から3倍近くの鉄砲を所有していたと考えるのが自然だ。

 葛西氏領内で,鉄砲を生産したとの記録は見当たらないから,葛西氏が保有した鉄砲は堺の商人から買い入れたものだったのだろう。

 

典型的な堺の鉄砲

 

 葛西氏領内で,鉄砲を生産したとの記録は見当たらないから,葛西氏が保有した鉄砲は堺の商人から買い入れたものだっただろう。当時において,葛西氏は,強力な火力を備えた兵力を持っていたとみて大過なかろう。そうであるならば,葛西氏の鉄砲装備率は,総兵力の10パーセン以上だったと可能性がある。

 天正17年(1589)といえば戦国時代末期である。鉄砲の生産能力の高くないその当時,草深い奥州の十数万石ほどの小大名が,数百丁にのぼる鉄砲を装備していたとは,驚くほかはない。戦国時代末期には戦いの勝敗は,鉄砲の数に左右されると考えが常識化していたのだろう。