磐城平藩と延岡藩での関流砲術大演習 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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 「谷神」と名付けた900匁大筒を用いれば,4キロメートル以上の長距離射撃を行なえる関流砲術は,土浦藩9万5000石土屋家の自慢であった。「谷神」は,重量約80キログラムで,撃ち出される砲弾の重さは3.4キログラムにもなる。関流炮術の師範は,これを抱え持って撃つのだから,とても人間業とは思えない。

 

関流砲術の至宝 「谷神」と「抜山」

上が「谷神」で下が「抜山」

 

 関家は代々,江戸屋敷において藩内に限らず広く砲術を伝授し,その門弟には,相馬出羽守,酒井雅楽守,内藤備後守,細川能登守,松平主殿頭などの藩主もおり,藩外からの入門者も多く隆盛を極めた。

 中でも磐城平藩(福島県)の内藤家は,三代藩主以降,連綿と関流砲術の教えを受けてきた。六代藩主内藤政樹にあっては,享保9年(1725年)8月6日に領内の藤間浦の砂浜で,町打ちと呼ばれた関流砲術による遠距離射撃の大演習を実施している。

 

関流砲術の大筒演武

 

 

 その後,内藤家は延享4年(1747年)に日向延岡(宮崎県)へ転封となるが,延岡藩領の宝財島で関流の遠距離射撃の大演習を実施している。文政8年(1825年)4月8日に行った関流砲術の大演習には,延岡藩主をはじめ、藩の関係者、町民など大勢の見物人が押し掛け,その様子は絵図「延岡宝財嶋玉町之図」に記録されている。この絵図は、現在,明治大学博物館で保存されているという。

 

 

「延岡宝財嶋玉町之図」の全景

関流砲術の大演習会場

 

延岡藩主の上覧席と大勢の見物人

 

関流大筒大演習場内の射場

 

町塚と呼ばれる関流大演習場内の銃座

 町塚の高さは二間,広さは三間四方。

射手は,陣羽織を着用せず1尺以上 2尺

未満の脇差を差し,射撃時には背中に回

すか,脇に置くのが定法。                     

 

大筒により撃ち抜かれた布の的