廃棄され作り直される日本の火縄銃 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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 1600年、 関ヶ原戦いには徳川家康 率いる東軍と、 石田三成率いる西軍が激突した関ヶ原では 、両軍あわせて17万以上の兵が戦ったといわれている。

 この戦いには,少なく見積もっても1万数千以上の火縄銃が使用されたはずだが,その時に用いられた火縄銃で,今も残っているのは,わずか一丁でしかない。その一丁とは,関ヶ原の戦いで徳川家康の勝利と決した後,島津義弘が薩摩に帰るべく東軍を敵中突破した退却戦で用いられたと伝わる鉄砲である。薩摩の柏木源藤はその鉄砲で井伊直政を狙撃し,鉄砲傷を負わせた。

川上家伝来古銃

尚古集成館寄託

薩摩藩士柏木源藤が,関ヶ原の戦いで井伊直政を狙撃

した鉄砲と伝えられている。全長100,5センチ 口径19ミリ

 

 火縄銃は発射装置を持つ機械であり,故障も少なくなかった。また射撃に用いる火薬の燃焼エネルギーによる銃身へのダメージは,相当なものだ。暴発を起こす危険もあるから経年劣化した火縄銃は,廃棄され作り直すことが当たり前だったのだろう。

 研究のために長年に渡り戦国時代の古い鉄砲を探し求めたが,ついに見つけることはできなかった。当館所蔵で一番古いものは,元和三年(1617年)に造られた稲富流の火縄銃なのである。

 

三河住清定の製銃した稲富流仕様の鉄砲。

金山城伊達・相馬鉄砲館所蔵

銃身には元和三年八月と刻まれている。元和三年といえば徳川家康が亡く

なった翌年だ。  この鉄砲は,400年の時の流れを超えて存在し続けている。

 

元和三年八月との銘