阿波船という名の馬上筒 その2 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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 公式ハッシュタグ 令和6年1月27日 骨董品ランキング1位

  神奈川県の火縄銃研究者からお借りしている下の写真の鉄砲は,とても珍しい鳶の尾の馬上筒である。この馬上筒は宮崎県教育委員会登録で,無銘の鉄砲であるため確たることは分からない。しかし,銃身に『阿波船』との金象嵌があったことが,大きな手掛かりとなった。結論から言えば,この馬上筒は,阿波の鉄砲鍛冶が作った岡山藩米村止停流の鉄砲なのだと私は推測している。 

 

『阿波船』の金象嵌がある鳶の尾の馬上筒

 

 阿波と淡路の二か国を有する徳島藩は,西国から京大坂へ向う海の関門だ。徳島藩は、海の関守として,大阪や淡路島の制海権の確保に重点を置くとともに,領国防衛のための第一戦線を海上に,第二戦線を阿波九城と呼ばれた城塞群で形成しようと企図したものと思われる。これが徳島藩の戦闘教義となり,阿波の鉄炮鍛冶たちは,空気抵抗や風の影響を受けることの少ない小口径弾を用いて高い命中精度と射程距離の長い銃をつくり続けたに違いない。

 

阿波徳島藩の鉄砲

阿波徳島藩は,命中率の高い小口径の一匁五分筒(11mm)を主要装備とした。

海の関守として制海権維持のため長射程と高い命中率の鉄砲を必要としたからである。

金山城伊達・相馬鉄砲館所蔵

 

江戸時代には徳島の鉄砲鍛冶は,堺や岡山の鉄砲鍛冶集団との交流があったと思われる。この三つの間は,瀬戸内海をはさみ舟でわずか1日の距離でしかない。

 

 

徳島藩の鉄砲は,その銃床や火挟みの形状は堺の鉄砲に相似する。徳島藩の鉄砲鍛冶達は,岡山藩の藤岡流の鉄砲を注文生産した。その過程を通し徳島藩の鉄砲鍛冶は,備前長船などの鉄砲鍛冶が得意とする鉄加工技術を学んだものと思われる。

 

徳島藩の鉄砲鍛冶が注文生産した

と思われる岡山藩の藤岡流の鉄砲

上から阿州石川勝之助,阿州多田辰之助が製銃した藤岡流の鉄砲

オッショサン所蔵

 

  これら徳島や堺,岡山の技術交流を考えると,銃身に『阿波船』の金象嵌のある鳶の尾の馬上筒は,南蛮筒でもなければ威風筒でないから,阿波徳島藩の鉄砲鍛冶が作った米村止停流の鉄砲である可能性が高い。この『阿波船』の鉄砲は,阿波の鉄砲鍛冶の技術の高さを証明する物的証拠と言えよう。また,鳶の尾の馬上筒は極端に数が少ないから,この鉄砲を保存継承する価値と義務は大きいといえる。