火縄銃の地政学 阿波の鉄砲(赤字訂正) | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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 阿波の徳島藩の鉄砲は,口径が小さく一匁五分(10mm)が標準的で、どの銃も銃身が異様に太く,頑丈な巻張作りのものが多い。これは、大量の火薬を装填できるよう銃身の厚さを太くしたためと思われる。また,小口径の一匁五分筒(11mm)を主装備としたのは、空気抵抗や風の影響を受けることの少ない小口径弾を用いて,命中率を上げようとした結果と推測される。

阿波の鉄砲

 

 阿波と淡路の二国を有する徳島藩は,瀬戸内海や紀伊水道に面する京大坂への関門だ。徳島藩は、海の関守として,大阪や淡路島の制海権の確保に重点を置くとともに,領国防衛のための第一戦線を海上に,第二戦線を阿波九城と呼ばれた城塞群で形成しようと企図したのであろう。これが徳島藩の戦闘教義となり,阿波の鉄炮鍛冶たちは,高い命中精度と射程距離の長い銃の開発を目指したに違いない。

 

 

 この阿波の鉄砲に影響を及ぼしたのは,地理的環境からみて堺と備前岡山の鉄砲鍛冶集団であると私は考えていた。例えば銃床の形状や火挟みの形状は堺の鉄砲に相似する。また銃口部分にも堺や備前の影響を感じる。しかし,それだけではなかった。阿波の鉄砲に最大の影響を与えたのは,紀州和歌山の雑賀衆だったに違いない。雑賀衆は鉄砲の命中精度に強いこだわりを持っていた。雑賀衆の主要装備は,口径12mm以下の小口径の鉄砲だったのである。

 

紀州の鉄砲

  

 

 「昔阿波物語」や「三好記」などによれば,阿波を領有していた戦国大名の三好氏が,雑賀の鉄砲傭兵集団に依存していたことは明らかだ。『紀州の港には,鉄砲が3000丁ばかりあり,しばしば雇われて阿波にやって来ていた。』と「昔阿波物語」は記している。

 雑賀衆の持つ小口径の鉄砲を見た阿波の武士や鉄砲鍛冶たちは,その命中率の高さを強く記憶したのだろう。阿波の鉄砲の揺り籠は,雑賀の鉄砲だったかもしれない。