去年,鹿児島県東岸にある志布志城を見物しに行った。この城は,日本で初めて鉄砲を実戦で使用した肝付氏の居城だったからだ。その戦いは,島津と肝付が戦った天文十八(1549)年五月の黒川崎の戦いである。志布志城に行けば,火縄銃について何かヒントが見つかるかもしれないと期待したからである。
薩摩の鉄砲
志布志城は,志布志湾に面したシラス台地の先端に築かれた山城である。志布志城は,肝付氏が島津氏に降伏後,大々的に拡充された。志布志城の特徴としては,柔らかなシラス台地を深く大きく掘り抜き登城路や空堀とし,郭を独立させた点である。
志布志城大手門後方の登城路
本丸下段の堀切
写真下部に写っている人間の大きさから,空堀が,いかに深いか分かって
いただけよう。これは自然地形ではなく,人力により掘られたものである。
発掘調査の結果,本丸下段の郭には,鍛冶工房とその住居があったことが推定された。多くの柱穴や土坑とともに製鉄や鍛冶作業時に出る鉄滓が顕出されたからである。
そして鹿児島県歴史・美術センターが発掘結果に基づいて作製した復元ジオラマが,下の写真である。
志布志城本丸下段の郭内にあった鍛冶小屋
断定はできないが,平時でも城中で鉄砲が生産されていた可能性がある。またその鍛冶工房の内部は,こんなイメージだっただろう。
出典 青森県八戸市の「史跡根城の広場」の展示より
この鍛冶小屋で 鉄砲を作っていたことは,証明はできない。しかし,長期籠城戦では,火皿などの部品の補修や修理が必ずあった。ならば,鉄砲鍛冶たちが,ここで仕事をしたことがあったと考えてもよさそうである。
現在の日本の城郭研究においては,これら職人たちの活躍に光が当てられることが少ない。これは,とても残念なことである。名前も知られていない多くの職人たちが,連綿として基礎技術を研究し発展させてきたからこそ,今の日本がある。日本を変えてきたのは,信長や家康などの権力者だけではない。名も知られない職人たちにもっと光を当てていくべきである。