種子島に鉄砲が伝来した後,九州などに様々なタイプの鉄砲が入ってきたと考えて間違いないだろう。米沢の霞流砲術や土浦の関流砲術の鉄砲は,その嚆矢である。これらの鉄砲は,そのシルエットや銃身の留め方が日本の一般的な火縄銃とは,かなり異なるのである。
米沢霞流 10匁筒
土浦関流 10匁筒
銃身末端が,鳶の尾と呼ばれるトンビの尾羽のような形をした鉄砲も,鉄砲伝来後,そう遅くない時期に日本に入ってきた鉄砲であろう。
鳶の尾の15匁筒
この鉄砲は,銃身末端の鳶の尾の部分を銃床の下からネジで留めているのだ。機関部の固定方法も変わっている。火挟みの脇から,鋲で機関部を吊っているのだ。日本の一般的な火縄銃とは,設計がかなり違うのである。
銃身末端がトンビの尾羽の形状
関ヶ原の戦いで,島津義弘が東軍の中央を突破して退却する際に,薩摩の柏木源藤が井伊直政を狙撃した鉄砲も鳶の尾の鉄砲だった。この狙撃による鉄砲傷がもとで,井伊直政は,その二年後に亡くなっている。
また種子島の上妻家に伝わった10匁筒も鳶の尾の鉄砲で,銃床の形も柏木源藤のものに酷似している。
上妻家に所蔵の鳶の尾の10匁筒
借り物の写真ですので,書き込み入れました。
おそらく,日本への航路を開拓した南蛮人たちは,こぞって日本に様々なタイプの鉄砲をもちこんだのであろう。もちろん金儲けのためである。