その日は学校から帰ってからが忙しかった。



何せ明日にはこの見慣れた景色を全て売り払って、全く別の場所で生活することになるのだから。


男は荷物を車に詰め込みながら、もう一度今まで自分の暮らしてきた5階建てのアパートを見上げる。


ここは社宅なため、そのアパートが6棟に渡って続いている。


男は改めて、自分が今まで割と閉塞的な空間の中で暮らしてきたことを思い知った。


そしてここには幼い頃から何をするにも一緒だった近所の友達が数人いた。男は、彼らに自分が引っ越すことは一切告げていなかった。


せめて彼らだけには秘密にしておきたい、幼心にもそう思ったのだろう。



「あれっ○ちゃん、何しとっとー?」


「ああ、明日引っ越すけん、その準備しとっとよ」


「・・・」



「・・・なんて?」


「引っ越すんよ。あした」



「・・・」


「・・・ドコに引っ越すんね」



ああ、と男はため息をつく。またこの質問かと。今日だけでもとうに20回を越す。



「いや、引越しって言ってもすぐ帰ってくるけん、そんな気にせんとって」


「そんなんズルイったい。なんで○ちゃんだけ引っ越すん?俺も行くよ」



―ありがとう、心の中でつぶやく。男はどうしようもなくシャイな少年だった。



「いや、ほんとにすぐ帰ってくるんよ。3ヶ月くらいで」



「分かった。・・・で、どこに引っ越すと?」


今度は男が沈黙する。


別にそこに意味は無かったのだが、何故かその答えが自分でもはっきりまとまらなかった。


「どこに引っ越すん」


「・・・」



「・・・まつやま」


その4文字は、口に出してからずっと男の頭の中を反芻していた。




「じゃあね」





    コミブロ最終回企画 『 One Emblem Has More Stories 』


           第5回 ~ An empty box filled with hopes ~





―3年前、まつやま―



男は、ここまつやまひがしに来てから初めての夏休みを迎えた。


1学期はひたすら自分を模索していた。


ここで暮らす人々を観察しては近づき、真似しては退いたりしていた。


そしてようやく自分のいちばん落ち着ける位置を見つけようとしていたとき、とある出来事に遭遇した。


その出来事は男の所属する硬式テニス部で起こった。



男が部活内で唯一仲良くしていた友人が、夏休みを堺にめっきり部活に現れなくなったのだ。

それは男にとって衝撃的な出来事だった。


男には部活内に他に特に仲の良い人間がいなかったため、一気にモチベーションが落ちた。


そして何より悲しかった。


男は、数日後授業に現れた友人に何故部活に来なくなったのか聞いてみた。すると彼はこう言う。



「いや、しばらく休んでそのうち復帰しようと思ってたんだよ」



そして彼はこう続ける。


「でもね、なんだかそのままダラダラしてるうちに、もう部活に戻る必要ないかなって思っちゃって。


 だって俺弱いし、あそこにいても意味無いやん?」



男は何も言い返さなかった。というか言い返せなかった。


男より彼のほうが腕は上だった。それなのに彼は部活を辞めて、男は残った。



男はひとつため息をついた。そしてこう答えた。


「そうだよね」



彼と入れ替わるように“少年D”が入部してきたのは、それから数日後だった。


彼はその後男の唯一の親友になった。


しかし男は、辞めた友人を決して責めたりはしなかった。


男に彼を責める権利は無い、と自分の中で思ったからだった。


男は自分の過失で一度、大切なものを失くしている。



その後、男は絶対に3年間部活を辞めまい、と心の中で堅く決心する。


今までなら、きっと男はここで挫折して全く逆のことを考えていたに違いない。


しかし、ここ「まつやまひがし」にはそれをさせない空気があった。これはもはや魔力だった。


そして男は呟く。―「必ず帰るから。」



1年目にこうして下した決意たちは2年目に男を思わぬ方向に導くことになる。


あの暗室へと続く線路がここに敷かれ始めていた。





―continued to 第6説///