成功する起業家は、自分の感情の取扱説明書を持っている。杉本幸雄
わたくしは、自由が丘の坂をゆっくり下りながら、朝の空気にまだ少しだけ残っている静けさを胸の奥で確かめていた。
8月の終わりの太陽の光は、いくばくか輪郭が柔らかく、街の色を少し滲ませるようなところがある。
わたくしは
その滲み具合が嫌いではない。
むしろ、わたくしの思考の深いところにある“余白”とよく似ている気がして、歩くたびに少しだけ安心する。
自由が丘の珈琲専門店に入ると、店内は薄暗く、木の匂いが静かに漂っていた。
わたくしはいつもの席に腰を下ろし、濃厚なフレンチコーヒーを注文した。あの深い苦味は、わたくしの朝の思考をゆっくりと底の方まで沈めてくれる。沈んだところで、ようやく本当のことが見えてくる。
わたくしは、
起業家として20年以上、ひとりで経営コンサル会社を続けてきた。2万回の指導セッションを重ね、静かに、淡々と、しかし確実にクライアントを成功へ導いてきた。
派手な言葉も、過剰な演出も使わない。
わたくしのやり方は、いつだって静かで、論理的で、必要なことだけを差し出す。そういう性質は、若い頃は欠点だと思っていたが、今ではわたくしの仕事の核になっている。
フレンチコーヒーが運ばれてきた。
湯気がゆっくりと立ち上り、わたくしの視界の端で揺れた。わたくしは一口飲み、深い苦味が舌の奥に沈むのを感じながら、今日のテーマについて考え始めた。
成功する起業家は、
自分の感情の
取扱説明書を持っている。
これは、わたくしが長年の観察と実務の中で確信したことだ。
人は、感情に振り回されるときに判断を誤る。
誤った判断は、誤った行動を生み、誤った行動は、誤った未来を連れてくる。
だからこそ、
成功する起業家は、自分の感情の構造を知っている。どのタイミングで不安が出るのか、どんな状況で怒りが湧くのか、どんな人と接すると疲れるのか、どんな環境なら集中できるのか。
そういった“自分の内面の仕様説明書”を、適切に持っている。
わたくし自身、刺激に敏感で、雑談や大声の会話が苦手だ。嫌だ。人が多い場所に長くいると、思考の深い層がざわつき、集中力が散ってしまう。
だから、
わたくしは自分の感情の取扱説明書を、長い時間をかけて書き上げてきた。朝の静かな散歩、ブラックコーヒー、自由が丘の高台の部屋、静岡の上等なぐり茶。
そういった“静けさのルーティン”が、わたくしの感情を整え、仕事の精度を高めてくれる。
わたくしは、クライアントにも同じことを勧めている。
例えば、
大手企業出身のAさんと、主婦でアルバイト経験しかないXさん。二人を年商3千万円の起業成功へ導いたが、工程はまったく変えている。
Aさんは論理的で、数字に強く、計画を好む。だから、感情の取扱説明書は「焦りが出るタイミング」、「完璧主義が暴走する瞬間」を中心に作った。
一方、
Xさんは人の気持ちに敏感で、自分軸が揺れやすい。だから、取扱説明書は「自信がなくなる場面」「疲労の兆候」「安心できる環境」を中心に設計した。
人は、みな、それぞれ違う。
だから、
感情の取扱説明書もそれぞれ違う。
成功する起業家は、自分の感情の扱い方を理解し、それを重要視し、必要なときに適切に扱う。
自分の感情の揺れを“短所”ではなく、“当然の現象”として扱う。ここに、静かな強さが生まれる。
わたくしは、
フレンチコーヒーをもう一口飲んだ。苦味がさらに深く沈み、わたくしの思考の底に触れた。
わたくしの人生目的は、「強くて優しい人を増やす」ことだ。強さとは、感情を押し殺すことではない。優しさとは、他人に迎合することではない。強さと優しさは、自分の感情の構造を理解し、適切に扱える人の中にだけ宿る。
わたくしは、静かな人間だ。無口で、丁寧で、理屈ぽく、必要なことしか話したくない。だが、その静けさの奥には、長年の実績と、洞察と、深い思考が積み重なっている。
わたくしはその静けさを誇りに想う。静かな人ほど、感情の取扱説明書を作りやすい。
なぜなら、
静けさの中でしか見えないものが、この世界には確かに存在するからだ。
わたくしはカップを置き、窓の外の大井町線を眺めた。人々が行き交い、歩き。わたくしの静かな思考の背景としてちょうどいい。
成功する起業家は、
自分の感情を知っている。
そして、わたくしは今日も、その静かな感情取扱いの仕様書を片手に、クライアントの未来を整えていく。


