運命の勝者 | フィギュアスケート妄想・疾走者

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どこかの民族では、数の概念は「1、2、たくさん」しかなかったとかいう話を聞いたことがある。

一人でも、二人でも、大勢と組んでも、高橋大輔はかっこいい。

平日バイト始めた上に、ちょっと夕方にも用事があったもんで、村元・高橋組のリズムダンスはリアタイ出来ず。


帰って夕食作って食べて、旦那がテレビから離れたところで、ようやく録画を見返す。


「Conga」、いいっ。

音に完全に調和してる。

いや、音楽にニュアンスをさらに付け加えるような、唐草模様を連想していたシングル時代の高橋大輔選手の動き。それに近い印象をところどころで受ける。

そこに正統派の、音楽にニュアンスをつけ加えたりはしない、哉中さんのいい意味で線が太い演技が重なるのだ。

樹木とそれに絡まる唐草。「かなだいの世界」はこういう方向なのか。

明日、あ、日付変わったから今日か。生で「オペラ座の怪人」が見られるのが楽しみである。




テレビで観た会場の様子。

興奮と共に掲げられるバナータオル。拍手と歓声。


日本での世界選手権を何度か逃してきた高橋大輔選手。

それが今、この喝采を受けている。

ソチ五輪の後、長光歌子コーチはテレビ番組で大輔さんへの手紙を読み上げた。

「満場の喝采を浴びている、そんな場面を見られる日まで・・・」、と。

そのとき、それを聞いた私が想像したイメージより遥かに幸せそうな光景が、テレビの向こうにあった。


この光景は、高橋大輔選手が掴んで勝ち取ったもの。競技の勝敗とは別の意味で、彼は勝者だと思った。





昔、漫画「エースをねらえ!」を愛読してた。その影響で中学校時代(軟式)テニス部に入ったくらいである。

その漫画のエピソードの一つ。

主人公岡ひろみは、自分について書かれている新聞記事を読む。その記事には新しく開催される、高校生のみ対象の日本開催の国際大会に彼女が出場できることについて「幸運な18歳」と書かれていたのだ。


そして彼女は独白する。

「人はそれを幸運と呼ぶ。」

「場を与えられ それに見合う努力を求められ 裏で血を吐く思いを繰り返す。」

場を与えられて、それに応えなければと頑張る若いアスリートの姿は、現実にも聞く話である。




しかし、競技復帰後の高橋大輔選手の場合、場は誰かから、ただ与えられたものではなかった(世界選手権辞退なんてこともしてたよね)。

というか、相手側の期待を超えてくるから、競技に関わっている人が「与えよう」なんて余裕を持てなかったという感じか?


他者が与えてくれる運命を手に入れるのではなく、自ら動いて掴みに行き、そして手に入れる。


彼は、自分の運命を自分で動かしてきた勝者だと思った。




もっとも、大輔さんの後輩の若きアスリート達、特に金メダルを獲得したり獲得しようとしている選手達は、競技運営側の期待などは既に超えてるような。

求められていることは理解しつつも、自分がその場に関わる意味を自分なりに作り上げ、周囲の期待すら自分にとっての意味になるよう再定義して、試合に向かって行ってるような。


そして、りくりゅうも坂本選手も栄光を掴んだ。


さて、明日は昌磨くんの栄光を見られるのかな…。