少しずつ来るべきLOTFについて書いてたら、あと少しで始まるじゃないですか。
というわけで慌ててまとめる。

LOTF2017
(http://loveonthefloor.com/より)

少し前、メリル様のInstagramのストーリー動画。
「Love On The Floor」のリハーサルを撮影したらしい。
アデルの「Hometown Glory」で踊る大輔さんともう一人のダンサーの姿があった。

前髪が長くて揺れる大輔さんの姿。いいわあ。
動きも心の底から「鑑賞」出来る。昨年のソロ、このナンバーは正直、あんまり好きじゃなかったというか、「まあ陸ダンス初挑戦だから」と応援モードだったというか。
今回は二人踊る姿があっても、大輔さんが見劣りする感じはない。二人のダンサーのうち好みの演技をする方に目を向ければそれが大輔さんという感じである。一年でここまで達してしまうのね。

そして、ソロダンスではなく、ダンサーと一緒に同じテーマを表現するところに、今回のショー全体も以前と変化しているかもしれない、と考えている。
というより、変わることを期待している。




前回の「Love On The Floor」、カーテンコール前の最後のナンバー「鏡に映る自分」。
この部分について、昨年私が書いた文を引用する。

『赤いダイスケ~「LOVE ON THE FLOOR」7月5日昼公演感想』

<引用開始>
そこへ「ありのままの自分を受け入れる それがパワー」(だったかな、そんな意味の言葉)がかぶさり、シェリルは踊る。
ヌードのような、しかし生身の肉感を感じさせないように作られた衣装のバックダンサー達と踊る。
裸の、そのままの自分自身であれ。自分の魂を抱き締めろ。そう伝えるダンス。
<引用終了>


そのクライマックス。そこには主演のシェリル以外のキャストはいなかった。既に別の世界で栄光を手に入れたアスリート、その身を飾るものを既に持つ人間は外されていた。
裸で、身体一つで挑んだ者、祖国を離れ、自分たちをよく知らない観客の前で自分の力をさらけだした者達だけがいた。
皆、それぞれに強い。「私」は強い。そういう者達が集まっての、「私たち」。
なぜキャストのシェリルがダンサー側なんだ?とも思ったけれど、彼女もまた自分にはダンスしかないという点で、他のオーディションで選ばれたダンサーたちと同じであるからか、と思いいたる。
こうやって構想し、自分の舞台のディレクターとなり主演をつとめても、その成功はよくあるうたかたとして流れていく。アスリート達の業績のように「歴史の一ページ」として刻まれたりはしない。

それでも、そんな「私」は強い。心揺さぶるような出来事全てを受け止めて、鏡に映った自分自身を受け止めていく。人はそうやって前に進んでいけばいい。
そんなクライマックス。

そして、はじける時間のカーテンコールへ!

という流れだった。
一人一人の中に強さがある、それは私のような観客、平凡な日々を送る人間も含めての話だと、シェリルは舞台の上から思いを届けていた。「私は強い」。そういう人間たちが集まった「私たち」は強い。
「Love On The Floor」というショーは、そういう話だと受け取った。7月5日昼公演で観た世界はそうだった。



しかし、である。
自分が観たその回の舞台の話ではない。
その後、ツイッターのタイムラインに流れる観客のつぶやき、カーテンコール画像、そして出演者の言葉などを読んだり見たりしているうちに、「このショーの世界、変わってきてないか?」という印象を受けた。

個々の私が、自分たちの力を発揮して協力して作り上げる世界を超えているような。
私たち、と語るしかないような結びつき、場を作ってしまったかのような。そしてリピーターが増えてきた観客を含めて、そういう場が出来ている気がしたのだ。
会場全体が一つのチームになっているかのような印象を受けた。
むろん、SNSの情報なんてしょせんは障子の破れ目からの覗き見である。それが本当かどうかなんてわかったものじゃない。
ただ少なくとも、キャストもダンサーもごちゃまぜになって、一つの時間を作り上げる対等な仲間になっていった「印象」は受けた。



シェリル・バークさんが活躍した「ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ」というテレビ番組を私はほとんど知らなかった。
(メリル・デイビスとチャーリー・ホワイトが出演したときの動画だけは過去見ていた)
調べてみたら「ゲストの芸能人やスポーツ選手が社交ダンスの特訓を受けて勝負する」番組。つまり、活躍するべき世界が他にある人達がほんの一時期、専門家と関わる。
ゲストたちは本気だろう、というのは想像できる。大輔さんだってバラエティに出たとき負けず嫌い全開でやっている。やるべき事にパワー全開で向き合っていくような人間でなければ成功なんて大抵しないんである。とはいえ、彼ら彼女らは帰る場所がある人達だ。成功の威光を身にまとい、それに恥じない結果を残そうとする人達だ。
おそらく、シェリル・バーグはキャストがそういう存在であることを計算の上で、このショーを構成したんだと思う。ダンスの世界しかないダンサー達とは違う。耳目を集め、音楽に乗る高い技術を持つ、美しい人達。けれど、ダンスの世界に属してはいない。

しかし実際のキャストは。
クリスティ・ヤマグチは私は知らない。
しかし大輔さんは一度は「スケート靴を置いて」アメリカに渡った人である。自分がいた場所を一度捨てた人である。
氷の上に戻ってみよう、という決心はしたものの、自分がいて馴染んできた競技の世界にも、今まで足を踏み入れてきたアイスショーの世界にも、そのままはまり込む気にはなれない状態の人である。帰る場所が分からない彼は、自分の過去の威光なんぞ意識もせず、全てを捨てて裸の状態で挑んできた。連日開催されるショーに沢山の観客を連れてくるほどの力があるにも関わらず。

そしてメリル・デイビスとチャーリー・ホワイトも、過去を忘れて挑戦したのかもしれない。
アメリカは女子シングルのメダルがないと「この頃のフィギュアは低調」と言ってしまうような国である。ソチで二人はメダルを取っているというのに。
この二人も、今までいた世界にこのままの形でかかわっていいのだろうか?という思いを持って、この舞台に臨んだのではないか。
少なくともチャーリーは、アイスダンスでは見せなかった(いや、競技の特性上見せることが出来なかった?)迫力と魅力を前面に出していたような。

キャストもこれからの人生をかけ、この場にいる自分自身を抱きしめて、一緒にいる仲間たちを抱きしめて。ここを自分の世界だと思う、そんな空間になっていたような気がしたんである。

クリスティ・ヤマグチは知らないけれど…彼女の年齢を考えると、四十代中盤って、これまでのやり方以外に目が向く時期ではあると思う。
過去の栄光など物ともせずにこの人も進んでいたのかもしれない。
私個人はその時期に病気してしまって、この時期確かに物事に対する視点は変わったけれど、それが年齢のせいか病気のせいかよく分からないんだけどね。



キャストもダンサーと同じように道に迷い、自分の魂に向かい合おうとしてた。その思いが重なり、溶け合って生まれた、「私たち」の空間と時間。
私がSNSで見た印象が正しかったら、再演される「Love On The Floor」の世界は、変わるはずだと思っていたのだ。「鏡に映る自分」、個々の私たちの「集合」。
それを超えて生まれた「私たち」の世界が、再演では何らかの形で投影されるだろうと。


で。
大輔さんのソロダンスが他のダンサーと踊るように変わった。
「雨に唄えば」のシーンは大輔さんとチャーリーが入っているとか?いう話も聞く。

リハーサルの短い動画、「実験」の音楽が流れる中、人々の腕の上で大輔さんはくるくると回される。「これ、女性でもできそうなダンスだな」と思う。
開催が決まっているLOTFアメリカ公演では、大輔さんの代わりに新キャストがやるのかダンサーがやるのか?あるいはシェリルがやるのかもしれない。残念ながら大輔さんがアメリカ公演INという話はないからなあ。
2016では「実験」の次はシェリルの見せ場のフラメンコだった。この順番だとシェリルが「実験」を演じるわけにはいかない。
しかし今回、大輔さんのフラメンコのボリュームが増えたみたいだし、となると「実験」が演じられる順番も変更されている可能性がある。
シェリルでもいけるんじゃないだろうか。
などと、妄想が膨らむ。



まあとにかく、前回はかなりきっかりとキャストとダンサーの領分は分けられていたけれど、今回は混ざり合い、入れ替わり合う感じである。
そして私は、その結果生まれるものを、今回は見たい、と思っているんである。





しかし、前回のジャスティンがいないのが残念。

サンシャイン
(これはジャスティース!)