【人生】新米教師とっティー 24歳の別れ | ぱいれーつかあさん☆彡羅針盤はマヤ暦!

【人生】新米教師とっティー 24歳の別れ

おはようございます。
 
 
いつか記事にしよう・・・と思いつつ5年。
 
 
自分のココロを振り返る長い長い連載モノ。
 
かなり重たい内容で途中収拾つかなくなるかちょっぴり心配でしたが
みなさんの「いいね」やコメント
春から始めたFacebookからの応援が本当にチカラになりましたウインクラブラブ
ありがとう!
 
 
 
 
 
 
いよいよ最終回ですベルベルベル
 
 
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24歳の4月
私は2年3組の担任になっていた。
 
「いいかとっティー
最初の3年間が本当に大切なんだ。
1.2.3年とみていくこと 担任として一緒に過ごすことで
生徒達の成長を感じられるんだ。
俺らと一緒にあがるぞ!!」
 
そう私を引っ張り上げてくれた主任たち。
 
 
 
 
新しいクラス
4分の3は
パワフルな男の先生たちに鍛えられてきた生徒達ばかり。
 
 
「1年のクラスはもっとああだった こうだった」
「前の先生はああだったのに こうだったのに・・・」
 
はじまりの4月はギャーギャーと本当によく吠えられた。
 
 
私も正直 前のクラスを引きずり切なく思っていた時期もあった。
 
 
 
でも人は順応性のある生き物。
 
 
生徒達は馴れというか諦めというか
徐々にではあるが このクラスがマイクラス
そんな雰囲気に少しずつ変わっていき
 
私自身も
前の先生の影に怯えるのではなく私は私。
私らしくみんなと関わっていこう!
 
 
少しずつだけどそう気持ちを切り替えられるようになった。
 
 
 
 
 
 
一方、2月あたまに余命3か月と告げられた母。
母には再発を伝えられずにいた。
 
 
 
元気になればうちに帰れる。
食べ物を食べられるようになる。
 
 
 
そう信じて手術を受け退院日を待ちわびていた母だったが
状況がよくなるどころか
悪化の一途をたどっていることを本人が一番わかっていた。
 
 
辛抱強い
我慢強い母
 
普段不平不満を一切口にしない母が
 
「よくならないし余計につらい・・・
いつ私は家に帰れるのか??」 とそんなことを口にするようになった。
 
 
家にいることが何よりも好きだった母。
 
 
 
 
「もうできることはありません。
今ここで退院しないとお母さんは一生家に戻れないでしょう」
 
主治医からそう話を受けた3月下旬。
 
 
「家で残りの時間を過ごしてもらおう」
状況を受け入れられない父を説得し
 
中学校の私と小学校教員の姉。
それぞれが周囲の理解や協力のもとひと月ずつ看護休暇を取得。
 
 
 
 
「私に任せなさい!」
4月に転任されたばかりの大ベテランの理科の先生が
クラスを一手に引き受けてくれた。
 
 
 
 
 
口から一切食べ物を受けつけられず点滴のみで横たわる母。
 
腸の癒着がひどく苦しくて苦しくてずっと吐き続ける24時間。
嘔吐物の匂いが充満する部屋で
馴れない点滴処置をする日々。
 
 
夜 隣に布団を敷いて眠る。
二人でボソボソとたわいもない話をし 母の寝息をきいて目を閉じる。
 
『お母さんはまだ生きてる・・・』 
 
同じ高さで横になっている時だけは
昔味わっていた安心感のようなものを感じられた気がする。
 
 
 
 
だが生と死。
 
命ギリギリのところで24時間共に過ごす毎日は
『失いたくないのにどうすることもできない』
自分の無力さばかりが募り
 
同じ歳の友人が週末プライベートを謳歌している話をきくと
「なんで私ばかりが・・・」
「なんでうちの母親が・・・・」と自分の過酷な境遇に深い深いため息の日々だった。
 
 
 
 
 
こうした気持ちは姉も強烈に感じていたことで
「なんでうちの家族ばかりこんな思いをするんだろう!??」
「お母さん 辛すぎるよ!」
「まだうちら若いのに!!」
 
広い世界からみれば私たち姉妹のレベルなど序の口ともいえるだろうが
こうよく二人で吐き出しあった。
 
 
全く何もかも正反対の我ら姉妹。
お互いのことが好きになれなかった私たち。
 
 
 
でも
ギリギリの精神状況に追い込まれることで
初めてお互いが姉妹でよかったと感じ
結束を強めることができるようになった気がする。
 

 
 
うちでの母との一か月が終わり 
姉とバトンタッチして学校生活に戻る。
 
 
 
 
中2病という言葉もあるくらい一番難しいといわれる中学2年生。
 
 
 
新しいクラスの子たちとギャーギャーバタバタやる喜怒哀楽全開の日々は
悩んだし苦しいこともたくさんあったけど
いかに自分の気持ちを紛らわし
生きるエネルギーになっていたかということを再確認。
 
 
 
いったん離れたことでそれが強く理解できた。
 
 
 
 
一年前あれだけ精神的に自分を追い込んでいた空間
もはや別世界だった。
 
 
 
 
 
そしてあのひまわりの日から一年後の夏休み。
 
 
 
 
母が危ない
病院へ戻され最期の時を過ごすことに。
 
 
 
今日明日がヤマ・・・
 

モルヒネで意識が朦朧とする母。
だけど忘れない。
ふっと目覚めた母が声を浮つかせながら私を呼ぶ
 
 

「とっティ・・・あなた・・・生徒たちの・・・勉強みなくていいの・・・・」
 
 

一応夏休みだが母はもう時間の概念などない。
 
私がよくテスト前の放課後
ちょっぴり勉強ができないチームの面倒をみていた話を思い出しているらしい。
 
 

「そっそうだね。今からちょっとみてくるわ・・・」
小さく頷き目を閉じる。
 
 
 
私は泣きながら病院前のブランコで時間をつぶす。
セミの鳴き声がとても耳に響く
暑い暑い昼下がり
 
 
 
 
自分が死の淵にいる中でも
私のことを思ってくれている・・・・
 
 
 
そんな母の強く深い愛が胸を突く
 
 
声をあげ涙を出せるだけ出して病室に戻る
 
 
 
 
朦朧とする意識の中 目をふと覚ました母に
「お母さん 安心して~
今5人の勉強みてきたよ。数学の計算。
みんなわかった~~って喜んで帰っていったよ~」
 
 
 

「そっか・・・それはよかった・・・・
おうちの・・・ひとたちに・・・電話したの・・・・」
 
 
「したよ!おうちの人達もみんな喜んでくれてたよ!」
 
 
 
 
 
「よかった・・・・安心した・・・・・」
 
 
 
 
 
 
にっこりと微笑み目を閉じた母。
 
 
 
日曜の昼下がり
 
これが母から私への最期。
最期の言葉となった。
 
 
 
 
 
翌朝
1995年7月31日 8時15分
 
 
 
最愛の母は旅立った。
 
 
 
 
体中にとりつけられていた様々な管から
ようやく解放され
安らかな穏やかな大好きだった母の表情に戻っていた。
 
 
 
 
おつかれさま
よく今まで頑張ったね・・・
やっと楽になれたね・・・・
 
 
悲しくて悲しくて号泣する姉を脇に
私はこの時あまり涙が出なかった。
 
 
 
 
 
 
私をこの世界に生み出してくれた母。
一緒に生きてくれた母。
 
 
 
 
たくさんたくさん心配かけて
たくさんたくさん苦しめてしまった時期もあったけど
 
 
私が私として伸び伸びと生きることを
誰よりも望んでくれていた母に
 
 
最期の一年間
真っすぐ生きる自分の姿をみて感じてもらえたこと。
 
 
 
これが何よりもよかったと思っている。
 
 
 
 
母の棺にあの千羽鶴
中学生女子の愛情がいっぱい詰まった千羽鶴。
 
きっと誇らしく思ってくれたに違いない。
 
 
 
 
「お母さん ありがとね・・・
もう大丈夫だから安心して見守っててね・・・・」
 
 
確か最期こんな言葉を母の亡骸にかけた気がする。
 
 
 
 
 
 
今もどこかで見守ってくれてるであろう母。
 
 
大丈夫!って言いきれるかは微妙だけど
日々ヘロヘロだけど面白おかしく生きている自分。
 
 
いろいろあるけど・・・・
 
 
生きてること
存分に味わってるよーーーーーー!!!
 
 
 
ン?知ってるって(笑)
 
 
 
この世界に私を生み出してくれたあなたに
心から感謝ですウインクラブラブラブラブラブラブ
 
 
 
 
ぱいれーつアンコール劇場
天国の母が応援してくれている
これを強く実感したみえちゃう先生との感動セッションキラキラキラキラキラキラ
 
 
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あとがき
 
 
 
 
 
 
『人はこの世に生を受ける前
お空で自分の人生のテーマを決めている。
起こる出来事すべては
魂を成長させるため 生まれる前に自ら選んできている』
 
 
そんな言葉がある。
 
 
 
 
 
私はウツになる自分を選んできたのだろうか?
最愛の母は
自らガンになり私たちの巣立ちを確認し他界するという道を選んできたのだろうか?
 
 
 
私には本当のところはわからない。
 
 
 
 
でももし
起こる出来事すべてが魂の成長のためというのなら
 
私はこの23歳24歳の2年間
自分のココロが一度死んでしまったこと
また最愛の母を亡くすこと
 
 
 
あれだけの状況から立ち上がれた 
這い上がってきた 
再生できたという経験は
今の私を形作る鋳型。
自分の財産 宝だとはっきり言える。
 
 
 
 
人との出会いやそのタイミングの不思議。
 
 
 
「給食食べられるよ!」と声をかけられたことも
「卒業旅行、一緒にフィリピンに行こう」と誘われたことも
新聞記者の男性と出会いケンカを売られたことも
 
 
どれひとつ欠けても
私が先生になるという道はなかった。
 
先生にならなければ
あの状況でのウツはなかった。
 
 
 
でも何度も繰り返すが
本当にあの地点でこの世界と自らサヨナラしなくよかった。
 
 
 
 
もしあそこで自分の人生に区切りをつけていたら
 
ここで記してきたような学校でのドラマや
家族の絆
母との別れ 
自分を支えてくれている人たちへの心からの感謝の気持ちを抱くこともできなかったし
 
その先に出会う
新しい学校での生徒達との関わりもなかった。
 
 
 
またもしあそこで命を絶っていたら
母親のような母性を感じた夫と結婚することもなく
(ン?騙された!??(笑))
 
愛おしい子供たちもこの世に誕生せず
 
戦友ママ友をはじめ
友人たちとの出会いや再会を楽しむこともなく・・・
 
また子育てにヘロヘロになることもなく
このぱいれーつブログもこの世には存在していない。
そしてもちろん、みなさんとの出会いもない。
 
 
 
 
いやだいやだそんなの!!!(笑)
 
 
 
 
 
 
私もそう
みなさん一人一人もみんなそう
 
 
 
 
生きているからこそ味わえる。
どんなことでも
生きているからこそ味わえる。
生かしてもらっているからこそ味わえる。
 
 
 
 
これからもいっぱいいろんなことがあるだろう。
落ち込むことも もがき苦しむことも・・・。
 
 
だけど
この命が続く限りしっかりと味わっていきていきたい。
 
 
 
 
心からそう思っている。
 
 
 
 
 
 
もし
この世界に生まれてきた役目というものがあるとするならば
 
私は人を癒すこと。
そしてちょっぴりユーモアを加え
目の前の人が元気になるちょっとしたお手伝いをしていくことがそれ。
 
 
 
だからこそさまざまな経験をさせられ
マヤ暦アドバイザーとして今の自分があると思っている。
 
 
 
 
 
もしあなたが生きていく中でちょっぴり苦しいことがあったとき
何かヒントがほしい
違う角度からのアドバイスがほしい
元気がほしいと思った時
 
 
 
こんな私でよければ是非声をかけてほしい。
 
 
 
 
これがドン底に落ちたけど這い上がってきた
私の生かされている意味だから・・・・
 
 
 
 
長い長い文を最後の最後まで読んでくれたあなたに
心から感謝ですウインクラブラブ
 
 
 
あーーーー!!最後まで書ききれてスッキリ!!
本当にありがとう!!
これからもよろしく!
 
 
ぱいれーつアンコール劇場再び(笑)
一人でも多くの方に読んでいただきたい記事です。
みなさんの周りにも応援団たくさんですよウインクラブラブ