尾瀬から帰るとすぐにこんなニューズを耳にした。

 

 

 
全国35の国立公園すべてに高級リゾートホテルを誘致するという。インバウンドは東京、大阪、京都に偏在しており、3大都市圏だけで7割超という現状にあって、地方への誘客を目論んでの政策と言われている。早期実現の有力候補として、利尻礼文サロベツ国立公園(北海道)、大山隠岐国立公園(鳥取・島根・岡山)、十和田八幡平国立公園(青森・秋田県)、 中部山岳国立公園(長野・岐阜県)の他、尾瀬国立公園(福島・栃木・群馬・新潟)も挙がっているらしい。当然、外資の参入を見込んでのことである。私は少なからずショックを受けた。かつて尾瀬は、経済活動優先による水没の危機から脱するまでの長い歴史があり、多くの人の尽力によって現在の形を残している。ここに来てまた再びインバウンド誘致という経済的な要請によって新たな危機が訪れるのではないかと。

 

 

 

尾瀬国立公園の土地の4割は東電が所有している

尾瀬国立公園(総面積約37,200ha)は、群馬県、福島県、新潟県、栃木県にまたがる29番目の国立公園である。日本で最も古い日光国立公園から2007年に分離し、周辺の帝釈山、 会津駒ケ岳地区を編入した。東京電力は、尾瀬国立公園の約4割にあたる群馬県側(尾瀬ヶ原がある側)約16,000haを所有しており、これは、尾瀬国立公園の特別保護地区(石1つ動かすのに環境大臣の許可が要る最も規制の強い区域)の約7割を占め、木道整備、湿原回復等の維持管理を関連会社である東京パワーテクノロジーに委託する他、環境学習などを通して、広く自然保護の重要性をアピールしてきた。

 

 

 

 

 

「電気かコケの保存か」ダムの底に沈むはずだった尾瀬

 

 尾瀬の水利権の獲得

現在では尾瀬の自然保護に尽力している東京電力だが、公園管理や自然保護が目的で尾瀬を取得したわけではない。 盆地状の地形をした尾瀬はダム建設にはうってつけの地形である。尾瀬ヶ原や尾瀬沼周辺の山地は、本州の分水嶺(太平洋側と日本海側の分け) にあたり、尾瀬の湿原に降った雨は大小の川を集めて只見川となり、日本海へと注ぎ込む。そこにダムを建設することにより、豊富な水を太平洋側に導くことで首都圏で利用できるようになり、また水力発電も可能になる。ここに着目した「関東水電株式会社」(のちに東電に吸収合併)は1912年、尾瀬沼の水利権を申請し、尾瀬原ダム計画を発表した。電力は当時工業生産が盛んになりつつあった日本経済を牽引するために必要不可欠であるとして、当時の内務省は群馬県に対し関東水電の水利権申請を認めるように強力に推進し、関東水電は1921年水利権を獲得する。

 

 

 

 尾瀬の土地の獲得

当時、群馬県側の山林は、明治の地租(固定資産税)改正以来 高額な地租に苦しんでいた村民が山林を切り売りし始めており、地元の実業家である横田千之助氏が保有していた。横田氏は、日露戦争勃発による電力事業への転売が有利と見て、保有している山林を「利根発電株式会社」(のちに東電に吸収合併)に36万円で売却したのである。これにより、関東水電が水利権を、利根発電が群馬県側の土地を獲得し、ダム計画が現実のものとなってきたのである。「電気かコケの保存か」「尾瀬の自然を残すよりも、尾瀬を開発したほうが将来の日本のためである」当時はこのような論調が主流であり、尾瀬はダムの底に水没する危機に瀕していた。その後、関東水電は信越、東北電力と合併し東京発電会社となり、さらに利根発電を吸収合併した東京電燈株式会社に吸収される。そして、戦後の九電力体制に再編成された後は、土地も水利権も現在の東京電力に引き継がれたのである。

 

尾瀬原ダム計画は水利権や環境保護の観点から反対も多く、何度も頓挫しまた再燃するを繰り返し、およそ77年後の1996年に東京電力が尾瀬ケ原の水利権を断念したことでようやく決着がつく。

 

 

 

分水と環境保護問題

 

 尾瀬原ダム計画案と尾瀬分水案

 

 

尾瀬原ダムの概略は、尾瀬ヶ原からの流出地点付近(流出する河川は只見川、阿賀野川水系の本川であり日本海に注ぐ)を堰き止め、貯水池で流量を調節したのち、利根川(太平洋に注ぐ)の上流端付近までトンネル水路で導水してその落差により発電すると同時に、分水により増した流量で利根川に連なる発電所の発電量を増加させるという計画である。たとえば昭和13年(1938)には、国力増強のために電力開発が必要であるとして、尾瀬ヶ原に設置する堰の高さは80メートル、分水量は最大毎秒100m3、発電出力は52万キロワット強という最大規模の計画が提唱されている。型式についてはロックフィルダムを基本としたが、ダムによって出現する人造湖は総貯水容量 6億8,000万 m3 、有効貯水容量 3億3,000万 m3 という極めて莫大なもので、完成すれば尾瀬はこの巨大な人工湖の底に完全に水没していた。だが、この計画は様々な政治や利権をからめての大騒動となる。最大の問題は水利権問題である。既に尾瀬沼の水利権は関東水電の流れを汲む日発関東支社が保有していたが、只見川・阿賀野川の慣行水利権を保有する福島県が利根川への分水に強硬に反発した。

 

高さ85mのロックフィルダム…三条の滝の爆流を見ると、尾瀬が如何にダムとして有望なのかはわかるが、よくぞ生き残ってくれたと思う。

 

この水利権の一部として、尾瀬沼から片品川のナメ沢に年間2万トンを分水して発電することが許可され、1949年(昭和24年)に実現した。工事が容易で、工作物は小さく、分水量も少ない。尾瀬沼の水深が3メートルの幅で調節されるが、自然への影響は軽微と判断された。この水路は地図上でも確認することができる。沼の南岸から三平峠を通る点線がそのトンネル水路である。

 

 

 

 環境保護運動の高まり

尾瀬を環境保護の観点からいち早く立ち上がったのは、尾瀬沼東岸に今も営業している長蔵小屋を建てた平野長蔵氏(1870-1930)である。1910年代終わり頃に具体的なダム計画が持ち上がると、単身で反対運動を行い、1922年には自分の建てた「長蔵小屋」へ永住してダム計画に抵抗の意思を固め、翌1923年に単身で上京し、長蔵は当時の加藤友三郎内閣の内務大臣であった水野錬太郎に尾瀬沼と尾瀬ヶ原の貯水池計画を見直す嘆願書を提出した。単身で厳しい自然の尾瀬に永住するのは想像を絶するが、「尾瀬を守りたい」という思いが、艱難辛苦の暮らしを支えた。「この地をして永遠に静寂を失わしむることなくして独想ー思索ー瞑想する地たらしめよ青年よ赤き心よ風光明媚なるこの湖畔に大自然の下に集りてこの大自然の美を享受せよ」長蔵の悲願は死後、息子の平野長英氏(1903年-1988年)に引き継がれる。燧ヶ岳から尾瀬沼に下りる「長英新道」を開拓した人だ。これを学者、文化人、登山家が支援し、尾瀬の自然保護運動、さらには日本の自然保護運動へと発展する。このとき発足した「尾瀬保存期成同盟」は、現在の「日本自然保護協会」の前身である。

 

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何年か前に泊まった尾瀬沼東岸の長蔵小屋。ランプの明かりが温かい山小屋だった。

 

 

 国立公園特別保護地域に指定

また、文部省・厚生省も尾瀬ヶ原の天然記念物指定を検討していたため、計画にストップをかけていた。1953年には「国立公園特別保護地域」に尾瀬の一部が指定され、1956年(昭和31年)には天然記念物に、続く1960年(昭和35年)には特別天然記念物に指定された。こうした流れに東京電力は1964年(昭和39年)に管理する尾瀬の森林を「水源涵養林」に指定して伐採を原則禁止とし、さらに1966年(昭和41年)3月には尾瀬原ダム計画を事実上凍結し、1976年に東電が尾瀬ケ原の水利権更新を断念したことで77年に及ぶ尾瀬原ダム計画は完全終焉を迎えた。

 

 

 

莫大な尾瀬の維持管理費

尾瀬には、湿原のみではなく登山道まで木道が敷設されている。総延長は約57km、その規模は日本最大であり、湿原に木道が延々と続く光景は、尾瀬の名物となっている。木道の敷設にかかる費用は総額68億4千万円。木道は、自然保護の観点から防腐剤などを使用していないため傷みも早く、毎年多額の改修費用が発生する。福島県と群馬県は、国の補助を受けて約37kmを管理し、 残りの約20kmを東京電力(東京パワーテクノロジー)が管理している。自然の川にも劣らない水質まで浄化できるよう、一基の設置費用が千万単位とも言われる浄化槽を完備した公衆トイレを設置したり、尾瀬内の施設へ太陽光発電の導入、入山口の種子落としマット設置、自然災害による被害の補修などのハード面の他、尾瀬内の監視や巡回、ツキノワグマ対策委員や様々な自然保護啓発活動など、尾瀬の保護活動に東京電力が直接的に支払う経費は、およそ年間4億円。福島第一原発の事故当時、今までと同じ水準の維持管理費用負担が危ぶまれ、一時尾瀬の地権売却も検討されたこともあったが、尾瀬国立公園の約4割を占める社有地については「大切な事業資産」として、売却しないこととなり現在に至っている。東電は現在、国、群馬県、福島県、とともに尾瀬保護財団を設立し、尾瀬を守る活動の大きな柱となっている。

 

 

 

尾瀬に高級リゾートホテル…

尾瀬原ダム計画の破綻によって尾瀬ケ原の分水、水没問題はなくなったが、今新たに、インバウンドの分散、誘客として尾瀬の自然環境資源が利用されようとしていることに私は一抹の(いや、大きな)不安を覚える。現在国内では自然保護の意識が高く、木道を外れて湿原の中に入って行くようなハイカーは皆無だが、尾瀬が一大ブームとなった1960年代には、湿原に入ったり、ゴミを捨てたり、植物を持ち帰るハイカーが大勢いたという。自然保護団体が根気よく啓蒙活動を続けたことにより、今では国内でしっかり根付いている不文律も、すべての国の人々に通用するとは限らない。まさか湿原の中にホテルが建つことはないだろうが、インバウンドを誘致するということは、尾瀬に入山する人も増えるということだ。外国人に向けてまた最初から、もしくは新たに自然保護啓蒙活動を行わなければならないが、靖国神社や八坂神社、奈良の神鹿などの惨状と、それに対応する術を持たない行政のあり方を見るにつけ、私は不安しか感じないのだ。尾瀬には高級リゾートホテルは全く似合わない。尾瀬には、古くて小さい山小屋でなければいけない。それが尾瀬ブランドだと私は思う。

 

 

2日目。温泉小屋から尾瀬ケ原への木道

 

見晴の山小屋群を抜けて沼尻川沿いに尾瀬沼に向かう樹林帯

日がさしてきた

 

尾瀬沼から尾瀬ケ原に向かう沼尻川

 

樹林帯を抜けると尾瀬沼手前で湿原に出る

 

沼尻から尾瀬沼を見る

 

尾瀬沼東岸

長蔵小屋の別館ができていた

 

下界にも引けを取らない内装の落ち着いたCafe

長蔵小屋は現在、若き起業家、登山家である工藤友弘氏がオーナーとなり、新しい感覚で経営されているようだ

 

チキンカレーも本格的で絶品

1,600円

こんな小洒落たものが特別保護地域で食べられるとは・・・

高級リゾートホテルの客が喜んでしまいそう

 

最後の大江湿原はヒメサユリの咲き残りが綺麗だった

尾瀬はこの世の楽園