この山門。
威風堂々の城構えです。
この時代、一体誰が設計して誰が建てたんだろう。
今よりずっと建築技術高くないですか?
金戒光明寺は、いざという時に京の要塞となるよう造営されたそうです。
小高い丘にあって、京の町が一望でき、御所まで2㌔という絶好の立地。
だから、敵が大軍で攻めて来られないように、
ここに入るには狭き道を通らなければならないのです。
その狭い道を何度か曲がって住宅地の一角に忽然と現れるのが西の高麗門。
金戒光明寺は地元では「くろ谷さん」と呼ばれているそうですが
法然が比叡山黒谷の青龍寺で修行していたことから
比叡山から下りて最初に草庵を結んだこの場所を「くろ谷」と呼ぶようになったのが由来です。
山門の「浄土真宗初門」の扁額は、「浄土真宗」の「初門」ではなく
「真の浄土宗の初門」という意味です。
幕末には、ここに京都守護職の本陣が置かれました。
「奥州会津藩松平肥後守様 京都守護職本陣 旧跡」
の看板が高麗門に懸けられています。
なんで会津なのに肥後守(今の熊本県)なのか。
実は官職名は自分の実際の領地とはほとんど関係がないそうです。
例えば秀吉は筑前守、光秀は日向守。これは信長から受領しましたが
肥後守は江戸幕府三代将軍家光から預かったという説があります。
以来会津藩主は代々肥後守を名乗っていました。
「京都守護職」は後にも先にも松平容保ただ一人です。
京都守護職が設置されてから160年以上経ってなお
名前が残っているってすごいことです。
山門からの石段を登りきったところにある御影堂(本尊:阿弥陀如来)
黒谷には約4万坪の広大な寺域に大小52の宿坊があり、千人の軍隊が駐屯できたのだそう。
この境内で教練なども行われていたのかも。
御影堂の隣の大方丈「謁見の間」は
新選組の近藤勇や芦澤鴨などが会津藩主松平容保に謁見した由緒があるんだけど
非公開のため見ることができませんでした。
御影堂から東に外れて行くと、段々畑ならぬ段々墓地が広がっていて
その石段の途中から北に逸れて西雲院の方に曲がると
会津墓地参道の案内の石塔があります。
この墓地には会津の兵士のみならず
鳥羽伏見の戦いなどで命を落とした女子供も埋葬されているのだそう。
任侠「会津の小鉄」が手下数百名を動員して遺体を回収したのだとか。
その後会津が賊軍となり、官軍から弾圧を受けるようになっても
子鉄がこの墓地を守り、生涯供養をしたのだそう。
昔の日本人は本当に義理堅い。
容保さんだ…!
よく見る写真より若干イケメンに造られてる。
文殊楼から振り返って見た京都の町。
中央の三角屋根が山門です。
文殊楼は工事中でした。
写真撮り忘れたけど
金戒光明寺といえば
墓地の石段の中腹にある「アフロ阿弥陀」を忘れてはいけない。
※写真は借物
本名は「五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏」。
阿弥陀様がまだ修行中の菩薩だった時、
悟りを開いたらどのような仏国土を作るのかとお釈迦様に問われ、
五劫の間考え抜いた結果できたのが極楽浄土だそう。
「劫」というのは極めて長い宇宙論的な時間の単位で
「天女が三千年に一度、天から下界におりてきて、大きな岩を衣でひらりとなでる。三千年に一度おりてきて、ひらり。そしてこの岩が擦り切れてなくなってしまうのを一劫という。五劫だと200億年超となる。」とのこと。
つまり無限ですね。阿弥陀如来は別名無量寿仏といいます。
「寿限無寿限無五劫の擦り切れ…」って落語もありましたよね。
そして一心にただひたすら考え続けている間に螺髪が伸びて
アフロになってしまったというのがこの五劫思惟阿弥陀仏です。
でもよ?
悟りを得る前に理想の仏国土を考えてた姿なんだったら、まだ阿弥陀仏(如来)ではないよね?
正しくは「五劫思惟法蔵菩薩」なんではないのか?という疑問も残る。
とにかく残暑で酷暑の中一日中歩きに歩き続けた結果がこれです。
尾瀬大回り2日目の15kmを超えて記録更新しました。
よく熱中症で倒れなかったと自分を褒めてあげたい。
だけどもし気候さえ良ければ、まだ歩く余力はある(`・ω・´)ゞ