美濃の明知城(あけちじょう)は別名を白鷹城(しらたかじょう)とも言う平山城です。 
 標高は528mですが、麓からは80mほどです。 

 源頼朝の重臣・加藤景廉が明知を含む遠山荘の地頭に任ぜられたとあります。 
 加藤景廉(かとう かげかど)は、平家の武士を斬り殺したため、本貫の伊勢を離れて、伊豆の豪族・工藤茂光の世話を受けていたとされています。 
 そして、源頼朝が伊豆で最初に挙兵した時から従っており、山木館襲撃の際に山木兼隆を討ち取った功績を挙げた御家人が加藤景廉と言う事になります。 

 その加藤景廉の長男で岩村城主の加藤景朝は地名をとって遠山景朝(とおやま-かげとも)と称し、遠山氏の初代となりました。承久の変で、朝廷方について敗れた兄の加藤光員(かとう みつかず)は所領を没収され、弟の景廉を頼って、当地に来たものの、時を経ずして没したものと思われます。というのも承久3年(1221年)の承久の変では、加藤家存続のために、弟の景廉は幕府方に属し、光員は後鳥羽上皇が率いる朝廷方に属して戦ったからです。 

 「加藤光員の墓」(史跡)は江戸時代に元の場所から引き墓されたものと推測される。

 

 

 こちらが、加藤光員旧墓のようです。

 遠山左衛門尉景朝の子である遠山景重(遠山三郎兵衛景重)が、鎌倉時代の1247年に明知城を築城し、明知遠山氏(あけちとおやまし)の始祖となりました。 

すなわち、遠山氏の宗家は、岩村遠山氏で、支族は明知遠山氏の他にも、苗木城を本拠とした苗木遠山氏がおり、「三遠山」(遠山三頭)と呼ばれ、明知城も遠山十八支城のひとつです。 
 この3頭は主要な分家で、遠山七頭(七遠山)と言うように、遠山氏は7流に分かれています。 

 明知城はこのように明知・遠山氏の本拠でしたが、戦国時代に入ると、遠山景行のとき、1572年に武田信玄が西上作戦を取ります。 
 この時、東美濃に侵攻したのは武田家臣で信濃・飯田城主の秋山信友で、岩村遠山氏の岩村城を落とすと苗木城だけでなく、明知城も攻略しました。 

1572年12月28日、明知城主・遠山景行は、ほかの遠山氏や小里氏、さらには徳川勢(奥平氏、戸田氏、足助城の鈴木氏など)の援軍を得て、総大将として秋山信友2500と、上村の戦いに挑んでいます。 
 この上村合戦では、兵力を集中できずに遠山勢は敗れ、小里光次・串原右馬介経景などと遠山景行は討ち死にしました。 

 門野兄弟の墓地

  

明知遠山氏は江戸幕府の旗本として存続しており、江戸の町奉行として有名な、遠山景元(遠山の金さん・遠山金四郎)は、明知遠山氏の分家の子孫となります。 

 幕末のペリー来航時に浦賀奉行を務めていたのは、12代の遠山景高となります。 

 明智光秀は、一般的に岐阜県可児市のほうの美濃・明智城、土岐一族の明智氏出身とされていますが、遠山氏の出身説は、明智秀満の父・明智光安が美濃・明知城主である遠山景行と同一人物だとする説で、遠山景行の子・遠山景玄が、明智秀満だとしております。 
 この遠山景玄は1572年の上村合戦で討死したとされており、矛盾点もありますが、遠山景行の妻が三河・広瀬城主の三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだとも考えられます。 

 そうであれば、明智光秀はこの明知城付近の出身、または明知・遠山氏の一族とも考えることもできます。

 

 

 

 安住寺には元亀元年(1570年)、遠山景行が上村合戦に敗れて自害した後に、首級が密かに運ばれて埋葬されたと伝えられており、寺の敷地には景行と妻の安住寺尼の墓所があって、頭部の疾患に霊験があるとされている。首級を運んだのが、門野磯之助、門野高四郎、門野角八郎の三兄弟のうち、合戦で討ち死にを免れた門野角八郎と伝えられている。