近藤勇所持刀 「阿州吉川六郎源祐芳」の鞘に貼られた松江豊寿さんの添え書きの 「下僕」。
会津小鉄こと侠客・上坂仙吉ですね。
「日本の親分グラフティー(1976年)」
この方についても以前書いたことがあります。
会津藩の中間頭であり、「虎徹」を持っていたので
通称・会津小鉄と言われたそうです。
当時は治安維持や情報網として、侠客の存在は必須だったと思います。
私が山﨑亟が優秀な探索方だと思うのは、やはり小鉄との縁があったからではないかと思っております。
(山﨑は小鉄経由の縁故入局だと思います)
会津藩が京都守護職に任命された頃、小鉄は「京の暗黒面を一手に握る元締」でした。
容保公は、京都での情報収集を行うために家臣たちを先に京都へ送ります。
そんな中で家老・田中土佐さんに見出されたのが、仙吉さんだったそうです。
やがて江戸から浪士組が上京し、その残留浪士たちが会津藩の御預となります。
でも彼らのすべてを、初めから信用したわけではないでしょうし、彼らが京都の地理を把握していたとは思えません。
なので彼らの「監視」と「道案内」の役、さらにはその「組織力」で協力するために仙吉さんが選ばれたと思われます。
だからこそ、新選組の「探索力」は凄かったんじゃないかなぁ。
「会津小鉄」の異名を持つ彼は、会津藩にとても強い恩義を感じており、また新選組局長の勇さんともとても馬があったと思うのですよね。
同じ「虎徹」好きですし
その勇さんの首級が、京都三条河原で晒された。
これは黙って見過ごすわけにはいかなかったのだと思う。
「横倉喜三次日記」にあるように、首級は東本願寺に払い下げられたのだと思いますが、その後彼が「奪取」して会津まで運んだとのこと。
もしかしたら東本願寺法主も承知の上かもしれない。
けれど東本願寺に迷惑のかからないように、「奪った」と言っていたのかもしれないですね。
小鉄と亟ちゃんについてご興味のある方は
※ 3本記事が続きます。
令和2年剥月(はくげつ)14日 汐海 珠里