勇さんの京都からの最初のお手紙は、文久3年2月26日

小島鹿之助さん宛てでした。

着京からわずか3日目に、ちゃんと書いていたのですよね 照れ

 (この書状については、鹿之助さんのご子孫で、現・小島資料館館長である政孝氏が諸論文でも紹介しております)

 

 

以手紙啓上仕候偖京地江廿三日無滞着仕候道中筋も差支無之乍憚御懸念被下間敷候過日発足之節者種々御厚情相成筆紙申上かたく奉厚謝候実ニ僕之微心相建乍併貴兄方々之思召仍之与是難有身終忘却仕間敷候留守宅親共義も御世話御心添被成下是亦奉厚謝候偖浪士一同之趣意之趣去ル廿六日 

皇帝学構江奉差上 

朝廷ニも尽忠報国奇特之趣被 

仰下候右之趣別紙差添置候 

宮堂上方江御達之趣別紙差上候京師江着廿三日朝足利氏十五代木像等持院ニ納有之初三代首刎四条川原さらし置候建札趣意書別紙如左方今形勢差迫り攘夷之事決定相成候趣 

大将軍御帰府之上廿日之御猶予ニ而直様醜夷掃攘相成候様京地者大小名諸藩小子共迄其勢広大ニ御座候乍併皆一同他行不仕謹慎罷在候尤浪士一同共京師ニ入ヨリ宿所ヨリ他出不相成慎ミ罷在候僕外者山岡鉄太郎殿同宿ニて御用向被仰付実ニ寸暇も無之仍而者
珍説御座候得共多用ゆへ申上兼候万一帰府之上御厚礼旁委細御咄し可申上候先者取込乱筆御判し被下度不備
   亥二月廿六日                          近藤勇
                小嶋鹿之助様

   (小島資料館・「鶴巻孝雄研究室」より)

 

 

23日に無事に着いたよ、とか留守宅等のお世話のお礼とか

あと、京都に着いた時の足利将軍木像が四条河原に… あれ?確か晒されていたのは三条河原よね キョロキョロ

ま~、いいか あせる

 

で、重要(ですよね?)なのは、「山岡鉄太郎殿同宿」というところ。

つまり、勇さんは山岡さんと同宿=新徳寺に泊まっていたらしい びっくり

よくよく考えてみれば、勇さんは京に着いた時は、まだ「道中宿割」というお役目だったのですよね。

このお役目のことは、先日の「本庄大篝火事件」に書いています。

 (その時の記事は こちら☆

それが「六番小頭」に復帰したのは、2月28日。

なのでおそらくそれまでの数日は、浪士組の役付きということで新徳寺にいたのではないでしょうか。

その後に再度「小頭」となったので、八木家に移った。

と、考えられます。

 

実はね、2月24日に清河さんの名前で上表文が書かれているのですが、おそらくこれを提出するのに「御寄合場」へ26日に数人が赴いております。

その中に勇さんのお名前があるのですよ。

  (「御上洛御供先手日記」より)

なんでかな~ とは思っていたのですが、当日書かれたこのお手紙に

山岡鉄太郎殿と同宿しているので、御用向きを仰せつかって少しも暇なく」(意訳です)

な~んて書かれているじゃないですか 照れ

 

この話は、3年前の奈良での歴史講座で簡単にお話しているのですが

覚えている方はいらっしゃるかしら 爆  笑
細か~いことなのですが、記載しておきますね キラキラ
 
それにしても…
近藤勇書簡集」が欲しいっ !!
(小島資料館に期待 ルンルン
 
追記)
「鶴巻孝雄研究室」のHP () に、書簡が記載されているのですが、関係史料の前書きに2000年3月の日付けがあり、もちろん今更の「新発見」の書簡ではありません。
ただあまり知られていないのも事実で、私自身が知ったのも数年前のことです。
非常に残念だなと思うのと同時に、7年前に「150年前の本日」記事を書いた時には勉強不足の為に知りませんでした ショボーン
故に改めて記事にした次第です。
宜しくお願い致します。
なお追記を書くにあたり、中村武生先生にアドバイス頂きました事を感謝申し上げます お願い
 
 
   令和2年六気(りくき)12日  汐海 珠里